ヒストリークルーズ Vol.15 渋沢栄一の歩みを彩った飲みもの 舶来の飲みものとの出会いとビール業界への支援 「日本資本主義の父」とも呼ばれ、その経営哲学が研究されつづけている渋沢栄一。江戸時代から昭和にかけての近代日本の国づくりに… ヒストリークルーズ

Vol.15 渋沢栄一の歩みを彩った飲みもの

舶来の飲みものとの出会いとビール業界への支援

「日本資本主義の父」とも呼ばれ、その経営哲学が研究されつづけている渋沢栄一。江戸時代から昭和にかけての近代日本の国づくりに関わり、その後に多くの企業や団体を支援しました。その中にはキリンビールの前身となった会社も含まれます。彼が出会った舶来の飲みものを中心に、『渋沢栄一伝記資料』を紐解きます。
「道徳経済合一説」を説き続けた近代日本の大実業家
渋沢栄一肖像 国立国会図書館

渋沢栄一肖像 国立国会図書館


渋沢栄一は江戸時代末期の1840(天保11)年に現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。幼い頃から家業を手伝う一方で、父に学問の手ほどきを受け、いとこの尾高惇忠から本格的に『論語』などを学んでいました。経済界での活躍が印象深い渋沢ですが、10代で当時の封建的な体制に反感を抱き、20代の頃に「尊王攘夷」思想の影響を強く受け、横浜港の焼き討ちや高崎城攻略を計画するなど、熱い思いを持った若者でした。

やがて15代将軍となる一橋慶喜に仕えて後には幕臣となり、徳川家に従ってパリ万博使節団として欧州を巡り、先進諸国の近代化を目にします。帰国してからは明治政府に招かれ、大蔵省(現在の財務省)で新しい国づくりに関わりました。その後、一経済人として活動し、生涯に約500もの企業を設立・出資して支え、約600の教育機関 ・社会公共事業を支援してきました。その根底には、道徳に基づいた経済活動をすべき、という思想をもって「道徳経済合一説」を説き続け、企業と社会が共に発展していく姿を描いたことで、昨今、再注目されています。

渋沢栄一肖像 国立国会図書館

渋沢栄一肖像 国立国会図書館


1867(慶応3)年
洋行で出会ったコーヒー、紅茶、シャンパン



征夷大将軍となった徳川慶喜の弟・徳川昭武がフランス・パリの万国博覧会へ派遣されることとなり、渋沢栄一はその使節団の一員として、横浜港からフランス行きの船に乗船します。その過程は渋沢栄一と杉浦愛蔵の共著『航西日記』に細かく記され、第1巻の中には

“ターブル 餐盤なり にて。茶を呑《のま》しむ。茶中必雪糖《かならずさとう》を和しパン菓子を出す。”
“食後。カツフヘエー。といふ豆《まめ》を煎《せん》じたる湯を出す。砂糖。牛乳を和して之を飲む。頗る胸中《きやうちう》を爽《すこやか》にす。”

という記録があります。この“茶”はおそらく紅茶で、“カツフヘエー”という記述はカフェ、いわゆるコーヒーのことのようです。フランス行きの船の中で渋沢栄一も紅茶とコーヒーを飲む機会があったようで、フランス滞在中にもお茶を楽しみ、茶会にお伴した記録も残っています。

当時の日本では紅茶・コーヒーはまだほとんど出回っておらず、『渋沢栄一伝記資料』のなかでも記録がないことから、初めて口にしたのではないかと考えられます。
また、フランス国内ではシャンパーニュ地方へも赴き、地名がお酒の名となっていることなど、シャンパンについての記述が残されています。

“此トロワは。仏国九十有余郡中の一なるシヤンパンギユといふ部郡内の一村落なり。シヤンパンギユ郡ハ葡萄名産の地にて。醇酒醸造の家居も多く就中シヤンパン酒を第一とす。蓋し其郡名を其儘酒名に用ゆるならん。此日午餐に一嚼を試みしに。果して。他の産に。優ること数等にして。其名空しからす”

いずれも、当時の日本人としてはとても貴重な体験であったに違いありません。
このトロワへは、1877(明治10)年~1879(明治12)年に山梨県から高野正誠・土屋助次郎が留学し、ワインづくりを学んで国産ワイン醸造への道を切り開いていきました。

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1886(明治19)年
ジャパン・ブルワリーに出資
ジャパン・ブルワリー重役会議事録1889年9月4日 渋沢栄一 サイン入り

ジャパン・ブルワリー重役会議事録
1889年9月4日 渋沢栄一 サイン入り


キリンビールの前身であるジャパン・ブルワリーは横浜・山手の在留外国人らによって、外資系の会社として1885(明治18)年に設立しました。当初、日本人株主は三菱社社長の岩崎彌之助のみでした。翌1886(明治19)年に資本金を増資することとなり、渋沢栄一をはじめとする日本人実業家たちが名を連ねることになります。渋沢栄一は1889(明治22)年7月に非常勤取締役に就任、1889年9月4日の重役会議事録にはサインを残しています。

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ジャパン・ブルワリー重役会議事録1889年9月4日 渋沢栄一 サイン入り

ジャパン・ブルワリー重役会議事録
1889年9月4日 渋沢栄一 サイン入り


1888(明治21)年
ビール会社を設立する

ジャパン・ブルワリーでは初の商品「キリンビール」が発売する一方、渋沢栄一は北海道の札幌麦酒醸造所と約定を結び、発起人の一人として札幌麦酒会社(現・サッポロビール)を設立します。この頃には日本各地にビール会社が次々と誕生し、「三ツ鱗」印ビール、「桜田ビール」、「浅田ビール」などをはじめとして、1900(明治33)年頃までには100社を超えていたと言われています。
また、1901(明治34)年の麦酒税法施行の際には、課税があまりにも高いため低減すべきだと請願を出して、日本のビール事業を芽吹かせようとしていました。

渋沢栄一はその後もビール業界への支援を続け、ジャパン・ブルワリーの重役は1896(明治29)年まで、大日本麦酒となった札幌麦酒会社は1909(明治42)年まで務めました。

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<コラム> 渋沢栄一とお酒

ビール会社を支援し、重役までも務めていた渋沢栄一ですが、実はお酒はあまり飲まなかったと伝わっています。実際に「私は本来、下戸であります。」と述べていたこともあり、70代の頃には禁酒運動にも賛同していました。自分の嗜好よりも事業の将来性などを見出し、支援していたことが窺えます。

1931(昭和6)年
晩年に口にした白ワイン


経済界を引退した後も精力的に活動してきた渋沢栄一でしたが、90代に入り、病床に伏す時間が長くなります。
晩年の1931(昭和6)年11月2日の記録として、このような記述が残されています。

“午前二時頃より八時までの間に玄米湯・白ブドー酒・ウヅラ卵・葛湯・番茶等を少量づゝ摂取されたので一般に喜色がある”

“白ブドー酒”はおそらく白ワインのことで、食欲のない渋沢栄一のために、看病にあたる人々が滋養のあるものをと選んでいたことが窺えます。この後にも天皇皇后両陛下より“葡萄酒”1ダースが贈られていました。渋沢栄一はこの9日後の11月11日に多くの人に惜しまれながら、91年の人生に幕を下ろしました。


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