歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

貴重品のビールで出獄祝い オランダ帰りの幕軍提督・榎本武揚
(えのもと たけあき)1836-1908/東京都(江戸)出身

出獄前祝いのビールで「ドロンケン」

榎本武揚

榎本武揚(国立国会図書館 蔵)


明治という新しい時代の幕開けを決定づけることになったのは、明治新政府軍が江戸幕府支持勢力を打ち破った戊辰戦争である。そして、1868(明治元)年から翌年まで足かけ2年にわたったこの戦争の最後の舞台が、蝦夷箱館(現・北海道函館市)の五稜郭であった。旧幕府軍を率いたのは榎本武揚。旧勢力である幕府海軍の中では抜群の開明派、オランダ帰りの軍艦奉行である。
1869(明治2)年、五稜郭の戦いで幕軍は敗北し、主将の榎本は東京に送られて投獄された。この獄中で榎本が姉に宛てた手紙の中に興味深い記述がある。

麦酒御恵投下され只今晩飯にたっぷり相用ひ誠にうきうきしたし申し候 (原文のまま掲載)

夕食のときにビールをたっぷり飲み、気分はウキウキだというのだ。
榎本がこのときウキウキだったのには、ビールで酔った以外にも理由があった。前日の新聞に榎本釈放の記事が記載されており、つまりビールは出獄前祝いの一興だったのである。

さらに手紙の最後には、「少々ドロンケンのため、乱筆をお許し下さい」と記されている。自らの酔っぱらいぶりを、幕末に蘭学者たちが「酔っている」の意で用いた「ドロンケン(オランダ語のdronken)」という言葉で表現しているわけだ。

オランダで新発売のハイネケンを飲む?

榎本は1836(天保7)年、幕臣の次男として江戸に生まれた。幼いときから好奇心旺盛で学問好きだったという。幕府の公的教育機関である昌平坂学問所で儒学を学び、英語は「ジョン万」として有名な中浜万次郎に師事。当時としては最高の英才教育を受けたといえる。幕府が海兵を育てるために開いた長崎海軍伝習所には第2期生として参加し、造船や測量、航法など最新の学問を学んでいる。

こうした努力が実り、幕府に派遣されオランダに留学したのは、1862(文久2)年、26歳のとき。次代の幕政を担うエリートとして選ばれたのである。

当時の留学生の多くは、航海途上や留学先でビール体験をしている。好奇心旺盛な榎本のこと、1864(元治元)年創業のハイネケン・ビールを手にした可能性は大いにある。留学仲間や地元の学生らと「ドロンケン」になるまで飲み明かしていたかもしれない。

貴重品だった国産品ビール

幕府がオランダに発注して建造した軍艦・開陽丸に乗り1867(慶応3)年に帰国した榎本は、幕府海軍のトップ、軍艦奉行に任じられる。ときあたかも幕末動乱の真っただ中。帰国して半年後には戊辰戦争が始まった。

幕府の勝海舟と薩摩藩の西郷隆盛との間で、幕府の恭順を示すための江戸開城が約された際、新政府への幕府軍艦引き渡しも条件の一つだったが、榎本は断固としてこれを拒否。精鋭艦8隻を率いて品川から脱出し、東北戦線で敗れた旧幕府軍を収容しながら、ついに蝦夷の地に上陸した。新選組の土方歳三らとともに、日本初の洋式城郭である五稜郭を占拠する榎本。だが結局、独立国家建設という榎本軍の夢は新政府軍によって打ち破られ、首班である榎本は投獄された。

実は、この頃に榎本軍が飲んだと思われるビールのびん(角びん)が、五稜郭から出土している。同様のものが江差沖で座礁した開陽丸から引き上げられており、創業時のハイネケンが当時としては珍しく角びんに詰められていたことから、このビールびんが、開陽丸がオランダを出港するときに積み込まれたハイネケンである可能性が指摘されている。もし事実だとすれば、榎本はハイネケンを輸入した最初の日本人ということになる。

さて、投獄された榎本だが、明治新政府高官である黒田清隆らの尽力により、およそ2年半で釈放された。 釈放が決定したときのビールは相当にうまかったのだろう。前述の書状をしたためた同日に、妻の多津にも「昨日も今日もたっぷりビールを飲んだ」と手紙を送っている。

麦酒沢山に御贈り下され昨日も今日もたっぷり相用ひうきうきと春を迎へ申し候

これらが書かれた1872(明治5)年当時、国内製造が始められたばかりのビールは実に貴重品。飲酒が許された晩餐は、さぞや盛り上がったに違いない。

観月院(姉)宛て書簡

明治五年一月二日
御同様に迎春御安康の段何寄り御目出度く存じ上げ奉り候
然れば大晦日の好新聞元旦早朝に長印より請取り一同大悦
今年こそ誠に快く春をむかへ申し且つ又麦酒御恵投下され只今晩飯にたっぷり相用ひ誠にうきうきしたし申し候
永井老人は極々酒ずきに付尚更大よろこびにて頂戴仕り候
一、いづれ其の中御目出度く拝顔の時を待ち申し上げ奉り候
新之助君江壱封差上げ種々御礼申上ぐべく兼て存じ居り候得ども
今日も長印出がけに幸便の由申聞き候に付
宜敷く御鳳声願ひ奉り候
御せいさん御同様相願ひ候
巳上
新正初二
御姉様
少々ドロンケンに付乱筆御海容下さるべく候
○肥、福、二子の心情御紙面にて諒諾申され候

榎本多津(妻)宛て書簡

明治五年一月二日
大晦日の新聞元旦早朝拝見一同大悦びいたし申し候
且つ麦酒沢山に御贈り下され昨日も今日もたっぷり相用ひうきうきと春を迎へ申し候
御まえにも相替らず御丈夫の由手前も寒さの障りもこれなく罷り在り御同様御慶の至りに存じ候
いづれ此度こそは多分近々に壱ツ所に朝夕をくらし候様相成り申すべく御待受け下さるべく候
末乍ら林御両親様並びに研海兄江も御まえよりよろしく御申し上げ下さるべく候
以上
正月初二  釜次郎
御たつとのへ
五稜郭の戦いを描いた錦絵

五稜郭の戦いを描いた錦絵(市立函館博物館 蔵)


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