1887(明治20)年前後は、明治初頭以来、徐々に増加していた国産ビール会社の数がピークに達した時期であった。先発の
「三ツ鱗」印ビール、
「桜田ビール」、
「浅田ビール」などに加え、小規模なビール醸造会社が乱立。激しい競争を繰り広げたのである。そのすべての詳細が明らかになっているわけではないが、ラベルが残されているものだけでも、1900(明治33)年頃までに東京・横浜・大阪・京都・愛知・広島・函館・長野など、全国各地に100を超える小さなビール会社が誕生、ビールの生産・販売をしていたようだ。
しかし、こうした小規模なビール会社は、その大半が資本不足や技術の遅れなどから競争を勝ち抜けず、次々に廃業の道をたどる。1901(明治34)年に公布された麦酒税法によって、それまで無税であったビールに
「麦酒税」が課せられることになったことが、それに追い打ちをかけた。日本のビール業界は、その出発以来、初めて淘汰と整理の時期を迎え、ジャパン・ブルワリー・カンパニー、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒など、いずれも株式会社組織に支えられた大会社への集中化が進んでいくことになるのである。