「キリンビール」の製造とラベル
ジャパン・ブルワリーの土地
1888年の横浜の地図
(部分、『The Japan Directory 1889』より、横浜開港資料館蔵)
ジャパン・ブルワリーの敷地周辺を拡大したもの。122、123、105B、240の数字が読みとれます。
ジャパン・ブルワリーが設立当初所有した土地は、1885(明治18)年9月17日の重役会議事録によると、105B、123、240A、240B、240Cの5区画(土地権利書によれば2,776坪、建築技師ジョン・ダイアック(John Diack)の測量では3,350坪)で、アボットから購入したものでした。土地についてはその後も購入・拡大していきました。1907(明治40)年に麒麟麦酒株式会社が創立される時点では20区画6,678坪でしたから、15区画約4,000坪買い増ししたことになります。
1888年の横浜の地図
(部分、『The Japan Directory 1889』より、横浜開港資料館蔵)
ジャパン・ブルワリーの敷地周辺を拡大したもの。122、123、105B、240の数字が読みとれます。
ジャパン・ブルワリーの醸造設備
1885年頃、ジャパン・ブルワリー設立当初の醸造所
ジャパン・ブルワリーの工場と機械・設備の設計案は、ドイツのいくつかのメーカーに委ねられました。そのうち、シュヴァーベ父子商会(R.S.Schwabe & Sohn)のものが採用され、それに基づき建築技師ダイアックが見積りや細部の設計を行いました。
なおこの間冷凍機を設置することから、資本金を50,000ドルから75,000ドルに変更しています。
ダイアックの見積りは当初高すぎたのですが、修正を加えられて1886(明治19)年10月8日の重役会で承認されました。またこの重役会ではカール・ローデ商会がドイツに醸造設備の発注を取り次ぐ権限を有することが確認されました(設備の内容は不明です)。そして同年11月26日の重役会でIwata Tsusoなる人物と21,665ドルで建築契約を結ぶことが議決されました。工場は1888(明治21)年に完成しました。
醸造設備はその後も数多く発注・更新され、その都度重役会で報告されています。ビール需要の増加に伴い、生産能力を高めていくためでした。とくに1901(明治34)年には麦芽粉砕からびん詰めに至る醸造機械全般にわたり更新・増設が行われました。
1885年頃、ジャパン・ブルワリー設立当初の醸造所
原材料はカール・ローデ商会を通じて
1887(明治20)年7月5日の重役会で、主任醸造技師ヘルマン・ヘッケルト(Hermann Heckert)が重役たちに紹介され、そこで麦芽、ホップなど原材料について話し合いが行われました。その結果、原材料の購入については、ヘッケルトと重役のヘンリー・ベール(Henry Baehr、横浜のカール・ローデ商会から派遣)が協議し、カール・ローデ(Carl Rohde)に注文することが決められました(発注はベール担当)。つまり原材料はカール・ローデ商会が一手に引き受ける形となったのです。これを受けて1887(明治20)年9月5日の重役会で、ドイツ・ハンブルクにいるカール・ローデに麦芽とホップを積み出すようすぐ電報を打つことが決定されました。麦芽についてはドイツ産(とくにハンブルク)を買い付けました。ときにはサンフランシスコ産やボヘミア産を購入しましたが、すぐにドイツ産に切り換えられました。ホップやその他副原料についてもドイツ産が中心でした。
なお、びんについては、カール・ローデ商会を通じてドイツ製の新びんを購入したことが1888(明治21)年2月29日、5月29日の重役会議事録よりわかりますが、同年10月19日の重役会では、品川硝子製造所との間に、1889(明治22)年4月1日からびんを購入する契約が結ばれています。理由はわかりませんが、輸送コストの問題が大きかったと思われます。
ビールの初仕込
ジャパン・ブルワリーとしてのビール初仕込は、1888(明治21)年2月に行われました。2月29日の重役会では、ドッズが醸造所の工事の進捗状況について報告し、さらに「既に第1回の仕込が2月23日に行われたことに喜びを感じている」と、ビールの製造がついに始まったという満足感を表しています。
新ラベルの採用
1889年、デザインが変更され、現在のラベルの原型となったラベル
「麒麟」の銘柄は1888(明治21)年の発売時から採用されていました。「麒麟」は荘田平五郎の発案によるものでした。しかし1889(明治22)年1月15日の重役会で、トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)がラベルに新しいデザインを採用したらどうかと提案し、新しいデザインの下書きが提出されました。そして、「現在使用中のものより、さらに(麒麟が)はっきりと描かれていて、適当なもの」であると承認されました。そのときの下書きは残っていませんが、現在に続く「麒麟」のラベルの原型となったと考えられます。
1889年、デザインが変更され、現在のラベルの原型となったラベル
王冠栓の導入の動き
「キリンビール」発売広告
(1888年5月28日『時事新報』)
びん口がコルク栓になっています。
1901(明治34)年9月6日の重役会では初めて王冠栓の使用が議論されました。当時のびん詰ビールはコルク栓を使用しており、他の原材料同様、カール・ローデ商会を通じてドイツから購入していました。王冠栓を使用したびん詰ビールは1900(明治33)年7月に東京麦酒が発売したのが最初とされており、ジャパン・ブルワリーでも王冠栓を採り入れようとする動きがあったのです。主任醸造技師カール・カイザー(Carl Kayser)も特製のびんをうまくつくることができれば王冠栓は有利であろうと重役会で述べています。しかしながら次の重役会(1901年10月22日)では、実験の結果王冠栓は故障が多いので導入しないことが確認されました。なお本格的に王冠栓を導入するのは、麒麟麦酒株式会社時代の1912(明治45)年からです。
「キリンビール」発売広告
(1888年5月28日『時事新報』)
びん口がコルク栓になっています。
活躍したドイツ人醸造技師:ヘッケルト、カイザー、アイヘルベルク
醸造技師・アイヘルベルク
(醸造所内にて〈写真左側の人物〉)
「キリンビール」の品質を支えたのは、優秀なドイツ人醸造技師の存在でした。1885(明治18)年7月8日の重役会で議決されたように、醸造技師は「資格あるドイツ人」で、ビールの醸造からびん詰、配送、機械の運転、原材料の使用、醸造所全般の作業の監督を担当業務としていました。彼らはドイツ風のビールづくりを志向し、ドイツから麦芽やホップなど原材料を取り寄せました。また醸造設備にもこだわり、ドイツの最新の機械を備えるよう重役会で懇願しました。とくに1887(明治20)年7月から1899(明治32)年4月まで醸造技師を務めたヘッケルトは、ビールの品質に対しては妥協を一切許さない人物だったようです。その姿勢はカイザー(1899年6月〜1902年6月)、アーウィン・アイヘルベルク(Erwin Eichelberg、1902年7月に副醸造技師より昇格)に引き継がれ、本場ドイツ仕込みの良質のビールが生み出されていきました。
醸造技師・アイヘルベルク
(醸造所内にて〈写真左側の人物〉)