ジャパン・ブルワリーを支えた人物たち
グラバーの活躍
トーマス・ブレーク・グラバー
(長崎県立長崎図書館 蔵)
ジャパン・ブルワリーの創業・発展に大きな役割を果たした人物として、グラバーの名があげられます。スコットランド生まれのグラバーは、1859(安政6)年に来日し、長崎でグラバー商会を設立して幕府や薩摩・長州藩などに艦船や武器類を輸入販売しました。維新後は明治政府との関係を深め、政府の「富国強兵」「殖産興業」推進に努めました。三菱の創始者岩崎彌太郎とも親交を結び、三菱では顧問格として処遇されました。スプリングバレー・ブルワリーが経営破綻した後、タルボットら在留外国人に買収を勧めたのもグラバーといわれています。彼はジャパン・ブルワリー設立時に、日本人株主として岩崎彌之助(彌太郎の実弟)を参加させ(1885年9月7日)、自らはのちに重役に就任します。そしてジャパン・ブルワリーが増資する際、日本の財界に資本参加を呼びかけ、荘田平五郎ら8名が新たに株主として加わりました(1886年8月23日→次項参照)。その後もグラバーはジャパン・ブルワリーの経営に積極的に携わっていきます。
トーマス・ブレーク・グラバー
(長崎県立長崎図書館 蔵)
日本人株主の存在
1886(明治19)年8月23日の重役会では、グラバーと日本の財界人の株式申込が検討されました。これは同年3月16日の株主総会で資本金を75,000ドルに増資すると決議されたこと(3月29日の重役会で承認)を受けて行われました。岩崎彌之助の追加申込の他に、荘田平五郎、高田慎三、益田孝、渋沢栄一、後藤象二郎、大倉喜八郎といったそうそうたる顔ぶれです。中でも渋沢と大倉は、翌年設立された札幌麦酒会社(現・サッポロビール株式会社)の発起人にもなります。当時の財界人はビール事業を有望視していたのでしょう。また渋沢は1889(明治22)年7月19日の重役会でジャパン・ブルワリーの重役に任命されます。ただ「重要な審議の場合を除いては、重役会への出席は要請されない」という条件付でした。以降の出席者のリストをみると渋沢の名前はほとんどなく、もっぱら議事録に署名するだけだったようです。彼は1896(明治29)年に重役を退任します。
法律顧問増島六一郎
増島六一郎は1886(明治19)年11月15日の重役会で株主に加えられました。増島は東京帝国大学卒業後、磯野計とともに代言業(弁護士)を行い、間もなく三菱の給費生としてロンドンに留学しました。帰国後増島は弁護士として名を馳せ、英吉利法律学校(現・中央大学)を設立しました。ジャパン・ブルワリーには彼は株主としてだけでなく、法律顧問としてかかわっていきます。とくに偽造ビールなど、法律に関する事態には増島の存在が欠かせなかったようです。