ジャパン・ブルワリー重役会議事録

  • 「重役会議事録」とは、ジャパン・ブルワリーで行われた重役会の議事録をつづったもので、1885(明治18)年7月8日から1904(明治37)年12月21日まで、約270回分が収められている重要な資料です。「重役会議事録」から読み取ることのできるエピソードとともに、全議事録を公開します。

ジャパン・ブルワリーと明治屋

明治屋と一手販売契約を結ぶ
絵葉書

横浜・山手にある谷戸坂
(絵葉書「横浜谷戸橋通」、横浜開港資料館蔵)坂を走っているのはキリンビールのビール馬車です。

1858(安政5)年の日米修好通商条約やそれに続く諸外国との不平等条約などによって、外国人の内地雑居は許されていませんでした。それゆえ外国法人であるジャパン・ブルワリーがビールを売るためには、日本人の経営する代理店を通じて販売しなければなりませんでした。そこでジャパン・ブルワリーは横浜周辺と輸出を直営とし、長崎は外国商人を代理店に任命する一方、これらを除く日本全土の販売を担当する代理店の選定に取りかかりました。このとき1888(明治21)年5月7日の重役会で総代理店に指名されたのが明治屋でした。明治屋との一手販売契約は麒麟麦酒株式会社時代の1926(大正15)年12月まで続きますが、その間明治屋は、ジャパン・ブルワリーと麒麟麦酒株式会社の経営発展に大きく貢献しました。
絵葉書

横浜・山手にある谷戸坂
(絵葉書「横浜谷戸橋通」、横浜開港資料館蔵)坂を走っているのはキリンビールのビール馬車です。

明治屋創業者・磯野計(いそのはかる)
磯野計

磯野計

絵葉書

横浜・本町通1丁目
(絵葉書「横浜本町通」、横浜開港資料館蔵)右手中央の建物が明治屋です。

明治屋の創業者磯野計は1858(安政5)年、美作国津山(現在の岡山県津山市)で生まれました。東京帝国大学卒業後、1879(明治12)年に増島六一郎らと代言人(弁護士)の事務所を開設しますが、翌年に三菱の給費留学生に選ばれ、ロンドンへ留学します。磯野はそこで法律ではなく、現地の商会に見習として入社し、4年間、商業実務を修得しました。帰国後は郵便汽船三菱会社に入社しましたが、1885(明治18)年に郵便汽船三菱会社が共同運輸と合併して日本郵船が創立されると、独立して明治屋を開業します。明治屋は開業から西洋酒類、食料品、たばこ、食器などの直輸入業を行い、経営が軌道に乗ると卸小売業へと業態を拡大していきました。磯野が日本に広まりつつあるビールに着目したのも自然の流れかもしれません。

磯野は日本郵船の顧問でもあったタルボットにジャパン・ブルワリーの代理店を引き受けたい旨の書簡を送ったとされます(1888年3月29日)。1888(明治21)年5月1日の重役会でタルボットが磯野計と明治屋について紹介し、磯野を「最も信頼し得る人物であり、適当な保証金の供託があれば、磯野氏と契約を結ぶことはわが社にとって非常に有利である」と評し、重役たちの承認を得ました。そして5月7日の重役会で磯野も出席し、契約が結ばれました。

明治屋は船舶へ食料品や雑貨品を納入していた関係で、横浜をはじめ長崎や神戸などの貿易港に独自の特約店網を有しており、ビールもこのルートを通じて販売されました。そして1890(明治23)年9月16日の重役会では、全国を60の地区に分割し、一地区に1または2以上の代理店を設けて販売網の拡充に乗り出すことが話し合われました。明治屋はまたユニークな広告宣伝活動を積極的に展開します(次項参照)。重役会では磯野からの販売に関する報告書や要望書などが読まれ、ときには磯野自身が出席して意見を述べました。議事録にはジャパン・ブルワリーの重役陣と磯野のやりとりが多く見受けられます。
磯野計

磯野計

絵葉書

横浜・本町通1丁目
(絵葉書「横浜本町通」、横浜開港資料館蔵)右手中央の建物が明治屋です。

ユニークな広告宣伝活動
石板刷りポスター

1903(明治36)年 石板刷りポスター
当社が所蔵する中で最も古いポスターです。

広告宣伝費については、年額2,000ドルをジャパン・ブルワリーと明治屋とで折半で負担しました。この額を超える場合は両社の協議によりその都度追加されました。議事録にはそのやりとりも多く見受けられます。

広告宣伝は「新聞」「雑誌」をはじめ、「ポスター」「カード」「店頭看板」「立看板」「鏡」などを通じて行われました。また1889(明治22)年4月10日の重役会では鉄道の駅の待合室に額縁付ポスターを掲げることが承認されました。これ以後も駅の広告は行われ、その都度、重役会で議論されています。

また1899(明治32)年9月8日には新橋と横浜両駅に食堂を設けることが提案・議論されました。いつ開かれたかは不明ですが、同年中の重役会で食堂について報告がされています。1902(明治35)年6月5日の重役会にもその報告があることから、少なくとも2年半は続いていたことがわかります(その後については記載がありません)。
石板刷りポスター

1903(明治36)年 石板刷りポスター
当社が所蔵する中で最も古いポスターです。

内国勧業博覧会の宣伝効果
絵葉書

横浜停車場
(絵葉書「横浜停車場」、横浜開港資料館蔵)現在の桜木町駅。右手にキリンビールの大きな看板があります。

1890(明治23)年3月に開催された第3回内国勧業博覧会(上野公園)で、ジャパン・ブルワリーは立看板などで宣伝する一方、大きな樽の形をしたティー・ハウスを出店し、「キリンビール」を提供しました。またそこで美人画のポスターを配布し、好評を博したようです。1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会(京都)と1903(明治36)年の第5回内国勧業博覧会(大阪天王寺公園)でもビアホールを出店しました。議事録でも若干ですが、それについての記載があります(1890年2月14日・5月27日〈第3回〉、1895年4月29日〈第4回〉、1903年3月24日〈第5回〉)。

なお「キリンビール」は第3回博覧会で「エビス」「浅田」とともにビールでは最高位の有功三等賞牌を、第5回には「輸入防遏、輸出の魁」として名誉銀牌を授与されました。それゆえ広告宣伝では、「キリンビール」の品質の高さをとくに訴えていくようになりました。
絵葉書

横浜停車場
(絵葉書「横浜停車場」、横浜開港資料館蔵)現在の桜木町駅。右手にキリンビールの大きな看板があります。

磯野計から米井源治郎へ
米井源治郎

米井源治郎

磯野長蔵

磯野長蔵

磯野計は1897(明治30)年12月14日にハイキン症(肺炎の一種)で39歳の若さで急逝してしまいます。そこで明治屋2代目社長に就任したのが、磯野のまたいとこである米井源治郎です。1897(明治30)年12月16日の議事録で、磯野個人が対象であった一手販売契約について議論されましたが、三菱の豊川良平が米井を保証することで契約は継続されました。米井は「キリンビール」の拡売により、ジャパン・ブルワリーと明治屋の経営発展に大きく貢献していきます。米井はのちに麒麟麦酒株式会社創立(1907年2月)の立役者となり、麒麟麦酒株式会社の専務取締役にも就任します。

なお、1919(大正8)年に明治屋の3代目社長に就任したのは磯野計の女婿磯野長蔵(旧姓松本)です。のちに麒麟麦酒株式会社社長をつとめました。
米井源治郎

米井源治郎

磯野長蔵

磯野長蔵

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