1854(嘉永7)年3月、日本はアメリカとの間に、下田と箱館(現・函館)の開港、アメリカへの最恵国待遇、下田へのアメリカ人居住地の設定などを定めた日米和親条約を締結した。アメリカ側の代表であるペリーは、条約締結後の3月27日、70人前後の日本側官吏を招いて船上でのパーティーを開催している。条約締結を記念しての祝宴で、船上に設けられた2カ所の会場に、豪華な料理とともに何種類ものアルコールが用意されていた。ペリー自身が残している日記によれば、日本の官吏たちも西洋式の乾杯を繰り返すなど、大いにパーティーを楽しんだようだ。
日本側の記録によれば、幕府に献上された酒の中には「土色をしておびただしく泡立つ酒」、つまりはビールと思われる酒も含まれていたというから、「日米友好」パーティーのテーブルにも、シャンパンやワインとともにビールが並んでいた可能性は高い。