近代化農業の布石として西洋種のブドウ苗を育成
明治初期、時の新政府は、まだ財政基盤を米に頼っており、政府の直接的収入は旧天領の「年貢」が主体であった。そこで凶作時への備えとして酒造原料としての米の消費を抑える策を講じる必要があった。西洋から移入される果樹農業の中でも特にブドウが着目された理由のひとつは、ワイン生産によって酒造用の米が節減できると見込まれたことにあった。
さらにもうひとつ、政府がブドウに着目した背景には、維新後の殖産政策にブドウ栽培とワイン生産を積極的に取り入れようという高官の存在があった。北海道の開拓次官・黒田清隆と内務卿の大久保利通である。黒田は1871(明治4)年1月に渡米し、同年、アメリカ政府のホーレス・ケプロン農務長官を明治新政府の開拓顧問として日本に招聘した。ケプロンは積極的に北海道を視察し、多くの事業を推進する中で、西洋種のブドウの苗木を育てて普及させる計画を打ち出した。これを受けて、ブドウの新品種導入とワイン醸造を一大産業に育てようと歩み始めた黒田に共感したのが、大久保である。彼は1871(明治4)年から1873(明治6)年まで岩倉具視特命全権大使の副使として欧米を歴訪しているが、その折、生食用に限定される日本のブドウ生産と、醸造用や干しブドウへの加工を主とした外国での生産の違いを学んだ。またフランス訪問の際には、夕食時に当たり前のようにワインを楽しむ"先進国の豊かな文化"を目の当たりにし、「日本でも用途の広いブドウの普及を図って新しい産業に育てる」ことを帰国後の念願としたという。
すでに1871(明治4)年、東京・青山に「開拓使官園」が、その翌年には「内藤新宿試験場」(現在の新宿御苑)が、殖産興業を推進する日本初の農業果樹試験場として開設されていた。これらの官営施設では果樹全般の育苗、西洋野菜の試験栽培などが行われていたが、大久保はこうした新しい品種の栽培を帰農士族(版籍奉還後、禄を失い帰農した士族)に託し、疲弊しつつあった農村社会の存続を図るとともに、西洋種のブドウ苗を欧米から導入する推進力にしようと試みた。
大久保利通(1830〜1878)(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」所載『近世名士写真 其1』より)
藤村紫朗(1845〜1908)(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」所載『明治天皇御巡幸紀』より)
山梨を欧米式ブドウ栽培と醸造施設のモデル県に
一方、古くからブドウの産地である山梨県では、藤村紫朗県令が、大久保らが掲げる殖産政策の実現と近代化に向けて、同県を欧米式ブドウ栽培と醸造施設のモデル県にしようと奔走していた。1876(明治9)年6月、甲府城跡に県の勧業試験場を建設。翌年、その附属設備として葡萄酒醸造所を開設した。勧業試験場では、開墾地に1万本余りのブドウを植え付けるなどして農業改良に取り組んだ。さらに藤村は、1877(明治10)年8月には法人組織・大日本山梨葡萄酒会社の創設に働きかけ、その株主の一人となった(会社所在地は東八代郡祝村下岩崎〈現在の甲州市勝沼町下岩崎〉)。
これに先立つ1873(明治6)年3月27日、藤村が租税頭・陸奥宗光に宛てて勧業授産の方法を具申した文書が『山梨県史 第三巻』(山梨県立図書館 刊)に掲載されている。そこには、「一、本県の地質等の条件が良木の培養に適していることは、桑、茶、ブドウ、柿などの生育状況から明らかである。(中略)そこで県はこうした(注:荒廃した)土地を開拓し、桑、茶、ブドウ、その他有益な良木を栽培し、寸地も荒廃した土地がないよう努める。 一、ブドウは本県の名産とはいえ、天然のままでは市場価値が低い。いっそうの加工を施すことで外国人の需要に堪えるものとし、現状の数倍の利益を上げることを目途としたい」、という趣旨が記されている。
山梨県の働きかけに対し政府は、現在の北杜市長坂町の日野春地区(当時は日野原)の未墾地の払い下げを認め、開拓に伴う援助金を交付している。入植の条件として甲府城勤番の旧士族に限る前提だったが、帰農希望士族の数は少なく、実際の入植者は日野春付近の村人たちであった。開墾した土地には、ブドウの苗木50本が植えられたと言う。しかし水利条件が悪かったことなどから、日野春の開拓は思うように進まなかった。
ブドウとワインによる殖産興業政策の成果
この頃、明治政府はブドウの品種改良と全国普及に向けて西洋種ブドウの育苗を広めるため、北海道の原野に着目。黒田清隆による屯田兵制度、士族移住、官営農牧場などの政策に加え、ケプロンの主導で西洋種ブドウの苗木が大量に北海道へと運び込まれた。1873(明治6)年に開設された「札幌官園」では、1879(明治12)年には4万株ものブドウが根づいた。開拓使が廃止された1882(明治15)年には、67万株を超えるブドウが道内に広がり、札幌近郊でもブドウ畑が一面に広がる風景が見られたという。
また1880(明治13)年3月には、フランス式のブドウ栽培試験場「国営播州葡萄園」が兵庫県加古郡印南新村(現在の稲美町)に開設され、ここに東京から運んだブドウの苗木を移植した。その面積は30万平方メートル余りにわたり、1884(明治17)年末にはブドウ樹が11万本に達し、ワインも生産された。
このように当時政府は欧州種のブドウ栽培を主眼としていたが、その後の全国の成育状況によると、欧州種の苗は日本の気候風土に合わず、また害虫(フィロキセラ)が広がったことなどもあって大半が枯れてしまった。山梨でも欧州種は病害虫でほぼ全滅してしまい、その後は米国種のコンコードやアジロンダック、ハートフォード、カトーバなどの品種に切り替えて育成に取り組んだ。
藤村県令の肝煎りで始まった勧業試験場も、1879(明治12)年に入ると勧業費の支出をめぐって批判が高まり、反藤村派の議員勢力を結集する動きも現れた。やがて、勧業政策そのものが新しい時代の波の中で新鮮さを失い、勧業試験場がその機能を停止したのは1883(明治16)年、それに伴って葡萄酒醸造所も有名無実のものとなり、翌年には操業停止に追い込まれた。ワインにおける官業指導型の殖産興業政策は、山梨県では望ましい功績を挙げられないまま、終焉を告げることとなった。
官主導によるブドウ栽培とワイン生産の試みが必ずしもうまく進展しなかった要因は、1. 欧州種のブドウが日本の気候風土に合わなかったこと 2. ワイン醸造の技術が未熟で良いワインがつくれなかったこと 3. 製造以上に営業の失敗。つまり売れなかったこと、にある。魚やお新香、みそ汁をおかずに穀類を主食としていた一般的日本人にワイン需要が広まっていくには、まだ時代が早かったのである。
しかし、この間の様々な試みは日本ワイン発展の礎になったといっても過言ではない。その話は次回で詳しく紹介したい。
山梨県勧業試験場におけるワイン醸造の記録。右ページが白ワイン、左ページがブランデーの分析値(山梨県勧業局「山梨県勧業報告」〈1880年〉より〈山梨県立博物館蔵〉)