歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

特命大使としてビール工場を視察 殖産興業を支えた公卿・岩倉具視
(いわくら ともみ)1825-1883/京都府<京都>出身

岩倉遣外使節団、出発

晩年の岩倉具視

晩年の岩倉具視(国立国会図書館 蔵)


1871(明治4)年11月12日。晴れ上がった秋の空の下、アメリカの外輪船「アメリカ号」が、横浜港から出航した。
その船上に乗り込んだのは、アメリカ、ヨーロッパへと向かう「岩倉遣外使節団」。正規の団員のみで総勢46名、多くの留学生も含んだ、平均年齢は30代前半という若き使節団を特命全権大使として率いたのは、当時47歳の岩倉具視であった。

岩倉具視は1825(文政8)年生まれ、京都の公家出身の政治家である。幕末の混迷の中で頭角を現し、皇女和宮の降嫁による公武合体運動を推進。のちに倒幕派に転じ、1867(慶応3)年の「王政復古のクーデター」では、大久保利通らとともに中心的役割を演じている。明治新政府の成立後も、参議、大納言と重職を歴任し、右大臣の地位にまでのぼりつめた。

その岩倉が率いた使節団の目的は主に二つ。一つは、在留外国人の治外法権を認めるなど、幕末に結ばれた不平等条約改正のための予備交渉を行うこと。二つ目には、西洋の制度や産業を調査・研究することである。どちらも、日本が近代化を果たし、列強諸国と肩を並べるためには必要不可欠な案件であった。

使節団の副使には、大久保のほか木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳と、そうそうたる面々が名を連ねた。成立間もない新政府の要人がそろって日本を離れたことになるわけで、この国家プロジェクトが、いかに重要なものとして受け止められていたかの証しともいえるだろう。

ビール工場での「利き酒」

日本を離れた使節団は、アメリカ・サンフランシスコでの滞在を経て、翌1872(明治5)年8月にイギリスの商港・リバプールへ到着した。1カ月ほどロンドンに滞在してエリザベス女王への謁見を待ったものの機会が得られず、時間を無駄にすまいとばかりにイギリス各地への視察旅行へ出かけている。

西洋の近代技術をじかに調査することを目的の一つと考えていた使節団一行は、各地で様々な工場を視察した。使節団の一員・久米邦武による公式報告書『特命全権大使米欧回覧実記』には、紡績工場や鉄工所、造船所や製糖工場などとともに、バーミンガム近郊に訪ねたビール工場の様子が記されている。
それによれば、工場の敷地は20ヘクタールもあり、中には汽車が走っていて、それ自体がまるで街のようであったという。一行はそこで、麦芽の製造から麦汁の抽出、醸造まで、ビールの製造工程をじっくりと見学することができた。
3時間にわたる見学が終わると、ビール各種がパンやチーズとともに運ばれ、「利き酒」の時間となった。味見をした岩倉が通訳を介して「強いビールが一番うまい」などと感想を述べたのを、周りで見ていたイギリス人たちはしきりに面白がったという。

イギリスを離れた後も、使節団はヨーロッパの10カ国を歴訪し、ベルギー、オランダ、オーストリア、そしてビールの本場ドイツなど、各地でビールの醸造や消費状況に興味をひかれていたようだ。『回覧実記』にも「ベルリンの公園には必ずビヤホールがあり、男女が小さなテーブルを挟んでビールのジョッキを傾けている」と描写され、また、ビール好きなイギリス人でも一人の年間平均消費量が100Lであるのに、ドイツ人が平均400Lを飲むことに驚嘆の声を上げている。ドイツでは宰相ビスマルク主催の宴にも招かれているので、ビールのジョッキを掲げての「乾杯」を経験する機会もあったことだろう。
『回覧実記』では、ヨーロッパのビール産業について下記のように記されている。

いまヨーロッパでビール醸造が盛んなのは、英国、ドイツ、オーストリア、およびベルギーの各国であり、それぞれ努力している。われわれが見た工場の広大さを見ても、この産業がいかに盛んかがわかるというものである。 (久米邦武編著、永澤周訳注『特命全権大使米欧回覧実記』/慶應義塾大学出版会)

西洋の新しい技術に目を見張りながら、岩倉らはビール醸造の技術をはじめ、西洋の近代技術をどのように日本にとり入れ、日本の近代化に結びつけていくか、懸命に思索をめぐらせていたことだろう。
横浜から出航する岩倉使節団

横浜から出航する岩倉使節団(山口蓬春画/聖徳記念絵画館 蔵)

日本の産業を近代化へと導いた使節団の成果

二年近くにわたる旅を終えて、使節団が日本へと帰り着いたのは1873(明治6)年9月。10カ月という当初の予定を大きく過ぎての帰国だった。

しかし、長く日本を離れていた使節団と「留守政府」は、徐々に対立の溝を深めていく。日本との国交再開を拒む朝鮮への使節派遣をめぐる「征韓論」でその対立は表面化。岩倉は使節団の「仲間」である大久保、木戸とともに、朝鮮への使節派遣を主張する西郷隆盛ら留守政府派を退け、辞任へと追い込んだ。翌年には、これを不満とする士族による岩倉暗殺未遂事件も起こっている。

その後、大久保が中心となった新政府は、積極的な殖産興業政策を推進。岩倉も右大臣としてその一翼を担った。急速な近代化を目指した彼らの念頭に、西洋で目にした、工業と貿易で栄える「近代国家」の像があったであろうことは想像に難くない。使節団の一つ目の目的であった不平等条約の改正は結局達成されなかったが、二つ目の目的であった西洋の制度や産業の調査は、日本の近代産業の発展へとつながっていくのである。帰国後、生活スタイルを万事西洋化させていった大久保とは対照的に、能・狂言の復興や京の伝統的建築の保存を進めるなど、むしろ日本の伝統文化に心を寄せていたといわれる岩倉だが、使節団での経験を生かし、晩年は伊藤とともに憲法制定に関わった。自らが率いた使節団の調査が功を奏し、西洋化していく日本の姿を見ながら、ときにはヨーロッパで味わったビールの味を思い出すこともあっただろう。

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