開港以来、当時最大の外国人居留地を有する横浜は、外国から最先端の知識・技術が集まる場であった。そのため、横浜に「留学」し、西洋の知識を吸収する若者があらわれた。1863(文久3)年、イギリス人のヘボン博士夫妻により、横浜外国人居留地39番地にて開始されたヘボン塾は、時代をリードし、日本の近代化に大きく貢献した優秀な人材を数多く排出した。外務大臣となり、日英同盟の立役者となった林董(外相、逓信相)、三井物産創業者の益田孝、高橋是清(総理大臣、蔵相)などが、1863(文久3)年から1868(明治元)年の間にヘボン塾で学んだ。
こうした英学修業中の日本人青年をモデルにイラスト入り風刺新聞『ジャパン・パンチ』は、「横浜ユナイテッド・クラブに見る若い日本」(1866年1月号)と題して次のように風刺マンガを掲載している。居留外国人にとって憩いの場である横浜ユナイテッド・クラブにて、外国人を相手に語りかける英学修業中の日本人青年。ズボン風に細く仕立てた袴に西洋靴をはいているが、刀を差しチョンマゲ姿のままである。葉巻たばこをくゆらしながらビールを飲み、「拙者は文明だけが好きでござる」と大見得を切っている。英学修業の青年たちは、ビールを飲むことで、西洋の文化を修得し、必死に追いつこうとしていたのであろう。
『ジャパン・パンチ』1866年1月号に掲載された「横浜ユナイテッド・クラブに見る若い日本」(横浜開港資料館 蔵)