横浜山手のスプリングバレー・ブルワリーの経営者である
コープランドは、醸造所の隣で外国人向けのビアガーデンを開いていた。ドイツでは醸造所にビアハーレ(収容人数の多いビアホール)を併設することが多いが、コープランドが開いたのはこぢんまりとした「ビアガーデン」であった。1876(明治9)年版の『ホング・リスト・アンド・ダイレクトリー』(居留外国人の商館および住人録)には、横浜山手121番に「Spring Valley Beer Gardens(スプリングバレー・ビアガーデン)」とビアガーデンの名が記載されている。リストは前年の記録をもとに作成されるため、少なくとも1875(明治8)年中にはビアガーデンができていたものと考えられる。
その後、1884(明治17)年にコープランドが醸造所を手放した際にもビアガーデンだけは続けられた。コープランドの妻・ウメの弟で、コープランドの家に寄宿した勝俣銓吉郎は、その頃の思い出を次のように語っている。
「ビアガーデンには奥行四、五間の倉があって隣の醸造所から鉛管で冷水を引いて、ビール樽を冷やしていた。お客は外国の船員で、厚い硝子の柄のついたコップで一杯十銭売りであった。外国船が入港したときは一番にぎやかであった。この硝子ジョッキは外国製品でのちに中国からもきた。その後にポットと称したトタンのようなものでつくった容器も使っていたが、小さい方は一杯十銭、大きい方は二十銭売りであった。スプリングバレー・ブルワリーが閉鎖された後は、隣のジャパン・ブルワリー・カンパニーからキリンビールを買っていた」(1953年に行われた勝俣氏へのインタビュー記録より抜粋)
日本で「ビアガーデン」という言葉が使われたのは、「スプリングバレー・ビアガーデン」が最も古い記録であり、横浜山手は日本のビアガーデン発祥の地といえる。