1887(明治20)年、納涼散歩が人々の間で流行し、日本橋・京橋付近の洋酒一杯売店は夜半までにぎわいをみせていた。「洋酒需要の景況 街にビール一杯売り」と題した『時事新報』の記事によると、その様子は次のように伝えられている。
「暑気が強くなるにしたがい日没後の納涼散歩は増加し市街が賑うのに伴い洋酒一杯売の小店は繁昌を極め日本橋、京橋区内の一盃店は午後12時すぎても客の出入を見受け日本製ビール他売れて行く」(『時事新報』1887年7月20日付)
日本製のビールのほかには、「ドイツ-ストラスブール府製のポックビールが1打3円、オランダ-アムステルダム府製のプリンスビールが1打2円60銭位の物」が売れたという。
洋酒一杯売店で人気があった国産ビールは、1880年代に入ると、中小さまざまな醸造所によって盛んに醸造されるようになった。1901(明治34)年3月に麦酒税法が公布されるまで、ビール醸造所(会社)の数は100を超えるほどの盛況をみせた。日本人による国産ビールのなかには、コープランドのもとで学んだ醸造技師を起用することでその醸造技術を受け継いだ「桜田ビール」、「浅田ビール」など、高い品質を誇るビールも誕生した。輸入ビールよりも安価で手に入りやすい国産ビールが数多く出回ることにより、ビールの一杯売店が繁盛したと考えられる。