1911(明治44)年3月、東京・京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」が開店した。カフェーは、ビアホールや、洋酒をそろえたバー、喫茶店とも異なっていた。ビールやコーヒーもあったが、メインはサンドイッチ、ビフテキ、グラタンなどの洋食で、それらを女性が給仕することに特徴があった。女性は、女給仕人を略して「女給」、あるいは「女ボーイ」と呼ばれた。「女給」という言葉の誕生である。
カフェー・プランタンは、「ミルクホールやビヤホールでは殺風景だし、待合では困る連中が多い、何処か悠々と話し込むだり、人を待合せたり出来る欧羅巴のカフヱーな様な所が一ツ欲しいもんだ」(松山省三著「プランタン今昔」/『文藝春秋』1928年9月号)ということから、洋画家の松山省三と、新橋の有名料亭・花月楼の若旦那で画家でもあった平岡権八郎によって開かれた。相談役の劇作家・小山内薫が、フランス語で「春」を意味する「プランタン」と命名し、建築家の古宇田實・岡田信一郎、洋画家の青山熊治・岸田劉生・岡本帰一らが店の改造やペンキ塗りに力を貸した。また、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用としていた。会員には、洋画家の黒田清輝・和田英作、森鷗外・北原白秋・永井荷風・谷崎潤一郎・高村光太郎といった文学者、市川左團次ら歌舞伎役者、新橋芸者の面々といった、当時の「新しき男と女」が名を連ねていた。
新進気鋭の芸術家たちが集い、ヨーロッパのエスプリへの憧れを形にしたのがカフェー・プランタンであった。