1944(昭和19)年、政府が決定した「決戦非常措置要綱」にもとづき、警視庁は東京都の飲食店や劇場などに対し1年間の休業命令を出した。「享楽追放」のかけ声のもと、一部の大衆食堂や大衆酒場、おでん屋などを除き、高級料亭やカフェー、酒場はみな休業に追い込まれたのである。
そんな中、それに代わる場所として登場したのが「国民酒場」であった。一人あたりビール1本か日本酒1合だけを飲ませる公営の酒場である。休業を命じられた食堂や酒場が看板を掛け替えて「国民酒場」となることもしばしばで、一時は東京都内で120軒以上が営業していたという。のちには東京以外の地方でも同様の公営酒場が登場し、地域によって「勤労酒場」(大阪・北海道)、「市民酒場」(横浜)などと呼ばれた。
どの国民酒場も、入り口のところで券を買い、それを中でビールや日本酒と引き替えてもらうというシステムであった。慢性的な品不足の時代とあって、店の前には開店前から長蛇の列ができた。割り込みなどをめぐって客同士のトラブルが起きることも珍しくなかったという。
それでも、ビールを外で飲める場所は、全国で数カ所だけ残ったビール会社直営のビアホールを除けば、この国民酒場しかなかったため、人々は黙って長い行列に並び続けた。激しさを増す戦争は、ビールを愛する人々の生活にも、暗い影を落としていったのである。