幕末の蘭学者で、特に物理・化学に関する研究や西洋の書物の翻訳で優れた業績を残した川本幸民は、初めてビールを醸造した日本人といわれている。三田藩(現・兵庫県三田市)の藩医の三男として生まれた彼は、早くから学問において抜きん出た才能をあらわし、参勤交代に伴って江戸に入府した。江戸では蘭学者・坪井信道の塾に入門し、緒方洪庵らとともに蘭学を学んだが、1836(天保7)年、刃傷事件を起こしてしまい、数年間の謹慎蟄居を余儀なくされた。1841(天保12)年に謹慎が解けると、その数年後にのちの薩摩藩主・島津斉彬と知り合い、1853(嘉永6)年に薩摩藩に転籍した。
幸民は『遠西奇器述』、『気海観瀾広義』などの書物を残し、マッチの試作や湿板ガラス写真の撮影に成功するなど、数々の業績を残しているが、その代表的な業績の一つが、ドイツの農芸化学書『化学の学校』を、オランダ語から重訳した『化学新書』である。このとき「化学」という言葉が日本で初めて使われたといわれている。この『化学新書』に、ビールの醸造方法が述べられている。幸民は書物にあることを実験によって証明していたが、ビールについても実験を行ったのか、かなり詳細な説明がされている。たとえば「上泡醸法」と「下泡醸法」では、発酵温度や仕込時間、貯蔵期間などが異なることなど、具体的に手法が述べられている。「上泡醸法」はイギリスのエールなどの醸造に用いられる「上面発酵法」のことで、「下泡醸法」は当時まだ確立したばかりで、ドイツ風ビールの醸造に用いられる「下面発酵法」のことである。
確証となる記録こそ残っていないが、『化学新書』の詳細な記述、幸民の実験好きを考えると、彼が「初めてビールを醸造した日本人」であることは間違いなさそうである。