1908(明治41)年、留学先のアメリカ、フランスから帰国、アメリカ滞在中に書きためた作品をまとめた『あめりか物語』を発表して注目を集めた永井荷風。東京・小石川で士族出身の厳格な家庭に生まれ育った彼は、落語家に弟子入りしたり、作家や歌舞伎劇作者を目指したりと、自由奔放な前半生を送った。父親の勧めで遊学したアメリカでは銀行にも勤めたが、性に合わなかったのか、フランスの支店に移ってわずか半年で退職願を書いている。
帰国後は、『あめりか物語』に続く『ふらんす物語』などの作品を次々に発表し、谷崎潤一郎らとともに「耽美派」と呼ばれ、作品のいくつかが発禁処分となったことでも話題を呼んだ。
その荷風は晩年、浅草の繁華街に通い詰めたことで知られる。浅草で食事や飲みに出かけることもしばしばだったようで、中でも足繁く通っていた気に入りの店が、浅草にある洋食屋「アリゾナキッチン」であった。日記『断腸亭日乗』にも、そこで食事をしたとの記述がしばしば登場する。注文するのはいつも、ビーフシチューとビールというお決まりのメニューであったという。
長い海外生活をしていた荷風のこと、ビールの味は、その若き日の思い出と直結するものでもあったにちがいない。浅草の雑多なにぎわいの中、ビールのグラスを傾けながら、老いた文豪の脳裏に去来するものは何だったのだろうか。