明治初期に輸入されていた外国産のビールはほとんどがイギリスのビールで、なかでも△マークが商標のバス社の「ペールエール」が人気を集めていた。1880年代に入り、日本国内にもビール会社が数多く設立されたが、それでもまだ輸入ビールのほうが国産ビールよりも多く、特に1885(明治18)年から数年間は外国産ビールの輸入が大幅に増加した。これは、関税などについての条約の改正が間近であることを察した各国領事館が、自国産のビールを日本に売り込もうとしたためであった。とくにドイツ領事館は熱心に自国産商品の売り込みを行い、モアビット、ストックなどさまざまなドイツ産ビールが日本に上陸し、人気を博すようになった。
その味の特徴が、上野で開かれた第3回内国勧業博覧会に上京した人々に向けて書かれた新聞記事「東京案内」(『時事新報』1890年5月30日付)に、次のように紹介されている。
「一口に評すれば英国ビールは濃くして苦味十分に含み、独逸ビールは淡くして呑口さらさらと好し」
ドイツ産ビールは、イギリス産ビールに比べると淡白で苦味が少なく、日本人にとっては飲みやすかったようである。
また、1885(明治18)年に浅田ビールを販売した
浅田甚右衛門(澱橋)の回顧録「麦酒製造の思ひ出」(1935年『集古』所収)では、当時の様子を次のように述べている。
「独逸製のビールが輸入し始めてから、英国製は段々すたれてしまった。独逸製の内で横浜の尾豊という洋酒商が、一手販売したストックビールが、最も好評を博し、ビールといえばストックといわれる位な盛況で圧倒的大勢力を持っていた。」(「麦酒製造の思ひ出」)
領事館の支援と日本人好みの飲みやすさにより、ドイツ産ビールは輸入ビールの主流となり、また数年後には国産ビールもドイツ風ビールになっていったのである。