1875(明治8)年、実業家であり洋酒商であった金沢三右衛門は、東京・新橋にビール店を開業した。のちに
「桜田ビール」を発売する金沢は、幕末から幕府外国方御用を務めており、莫大な利益を上げるとともに横浜で見識を広めていた。1872(明治5)年に
新橋〜横浜間で鉄道が開通となり、外国人からの勧めもあって新橋にビール販売業を営むこととなった。
ちなみにその外国人とは、金沢三右衛門の日記によれば、「墺国アレキサンドル・バロン・ボン・シーボルト氏及舎弟ヘンリー・ボン・シーボルト右両氏」とのことである。「アレキサンドル」とは日本の洋学発展に貢献したフランツ・シーボルトの長男で明治政府要人の補佐役として活躍したアレキサンダー、また「ヘンリー」はオーストリア領事館に勤務した次男ハインリッヒである。
開店当初は、ババリア・ブルワリーでヴィーガントが醸造するビールを主に販売していた。しかし、翌1876(明治9)年にスプリングバレー・ブルワリーを経営するコープランドがヴィーガントと共同経営に乗り出すと、金沢はスプリングバレー・ブルワリーで醸造された「ババリアン・ビール」を販売するようになった。この「ババリアン・ビール」を、金沢は「横浜ビール」として売り出した。1878(明治11)年5月2日付の『朝野新聞』に載せた長文の広告には、次のような宣伝文句が載せられた。
「横浜山百廿三番コプラント及ウイガント氏醸造ビールの義は有名なるババリヤ国の醸法にして現に製する所爰に欧洲産に優れる故に弊店にて先年より売捌来候処内外諸君の御愛顧を蒙り日増盛業相成難有奉存候」
「ババリアン・ビール」は質の高いドイツ風ビールであることをうたい、顧客に対する感謝も述べられている。
新橋に店を構えた金沢のビール販売所は、醸造所へ電報でビールを注文すると汽車で横浜から運ばれてくるという便利さであった。また、東京・築地の外国人居留地にも近かったため、居留外国人への売り込みにも絶好の場所であった。