1888(明治21)年、横浜山手のジャパン・ブルワリー・カンパニー(以下、JBC)で製造された「キリンビール」が、販売国内総代理店の明治屋によって全国に発売された。
1885(明治18)年に設立されたJBCは、スプリングバレー・ブルワリーの跡地に設立した外国人経営の会社である。会社設立当初から、冷凍機をはじめとする機械、原料をドイツから輸入し、資格のあるドイツ人技師を招聘して本格的なドイツ風ビールの醸造を目指していた。
1888(明治21)年にビールの仕込みを開始したが、同時に製品販売の準備も進められた。西洋諸国と日本が結んだ諸条約の影響で、外国法人であるJBCは居留地以外の日本国内で直接ビール販売を行うことができず、日本人経営の代理店を通じて販売する必要があった。そこで代理店として選ばれたのが、横浜に
磯野計が創立した明治屋であった。
1888(明治21)年5月、明治屋はJBCとの間に、横浜・長崎の居留地と輸出を除く日本全土に関する総代理店契約を締結した。キリンを商標にしたのは、三菱社管事の
荘田平五郎が「当時、西洋のビールのラベルには動物の図柄が描かれていることが多かったため、「東洋の霊獣・麒麟を商標にしよう」と提案したからだとい言われている。こうして、「キリンビール」の商標が登場したのである。
発売の翌年にはラベルのデザインを変更し、現在のラベルの原型となるデザインになった。その年の10月21日付『時事新報』に掲載された広告には「先年横浜に麦酒醸造所の新設ありてキリンビールを売出してより頓に市場に声価を博し販売の途漸く広まりて今は全国に其名高く広く世人の飲用する所となりたり」とあり、前年の5月に売り出されたばかりのビールが、すでに人気を定着させていたことがわかる。