『ザ・ジャパン・ヘラルド』に載ったビールの広告(国立国会図書館 蔵)
幕末、外国人居留地ができると、西洋人が日常飲んでいたビールも盛んに輸入されるようになりました。1861(文久元)年11月に発行された週刊英字新聞『ザ・ジャパン・ヘラルド』の広告には、各種ワインやブランデー、ウイスキーとともに、ビールが売りに出されていた記録が残っています。
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『ザ・ジャパン・ヘラルド』に載ったビールの広告(国立国会図書館 蔵)
明治半ばになると一般の酒販店でもビールを取り扱うようになりましたが、全ての店舗で入手できるわけではありませんでした。そこで新聞広告を用い、今でいう通信販売を行うビール会社が出現。
1886(明治19)年3月15日付『時事新報』に掲載の「浅田ビール」の広告では、「府内に限り郵便にて御注文次第壱瓶なりとも早速御届ケ申上候」と、たった1 本の注文でも配達することを伝えています。配達用の自動車もない時代でしたが、宅配でビールの味を知ってもらおうという作戦でした。
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明治20年代には新聞広告にイラストを添えることが一般的になりました。
1890(明治23)年6月13日付『東京日日新聞』に載った「キリンビール」の広告では、「演題 キリンビール」という看板の下で、ビール樽を演台代わりに、右手にビールびんを高々と掲げて弁をふるう男が描かれています。長い宣伝文も読者に「諸君」と呼びかけるなど、イラストに合わせた演説調である。自由民権運動以降、政治演説を見聞きする人が増えたため、こんなユーモアも大衆に受け入れられました。
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上京の翌年、石川啄木は電車の車内で「食(くら)ふべきビール」と記された「キリンビール」の広告に目を奪われる。「食ふべきビール」とは、「ビールは栄養価が高いので、食事をとるのと同じように、日常的にビールを飲みましょう」という意味が込められたキャッチコピーであった。
この文句に触発された啄木は、1909(明治42)年12月、「食(くら)ふべき詩」と題した評論を『東京毎日新聞』に発表しています。
この「食らうべきビール」と言うキャッチコピーは長らく様々なキリンビールの広告で使い続けました。
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