1858(安政5)年6月にアメリカと結んだ日米修好通商条約をはじめ、イギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の条約が結ばれると、横浜、長崎、函館、神戸、新潟が開港され、西洋諸国との貿易が始まった。1859(安政6)年6月、当初の開港予定地で街道筋であった神奈川を避けて開港された横浜港は、日本最大の貿易港となり、幕末には対外貿易の8割を占めるまでになった。また、各開港場に外国人居留地ができたが、横浜には最も多くの外国人が居留した。
彼らのために食料品や日用品が輸入され、西洋人が日常飲んでいたビールも盛んに輸入されるようになった。1861(文久元)年11月に発行された週刊英字新聞
『ザ・ジャパン・ヘラルド』の広告には、各種ワインやブランデー、ウイスキーとともに、ビールが売りに出されていた記録が残っている。
また、1865(慶応元)年には現在のビアホールにあたる
「ビア・アンド・コンサートホール」が開業するなど、幕末の横浜には、ビールという飲み物だけではなく、ビールを楽しむ文化も上陸し始めていた。