短歌に詠われた孤独で悲しい一人酒
都会にあこがれ、モダンな文化を好んだ啄木は、他方で漂泊の歌人であった。1886(明治19)年、岩手県の日戸村(現・盛岡市玉山区日戸)に生を受けた彼は、中学校時代にはのちに妻となる堀合節子や生涯の友・金田一京助らと出会う。17歳で最初の上京を果たし、与謝野鉄幹が主催する雑誌『明星』で詩歌を発表すると、その後も多くの文学者と交流を重ね、歌壇で注目を集め始めた。
しかし、翌年に病に冒されたため父に伴われて帰郷。それ以降は、歌人としての名声とは裏腹の不安定な生活が続いた。
盛岡時代には学校教員などの職に就くが、こらえ性のなさや気まぐれな性格から仕事は1年として続かない。1907(明治40)年、21歳のときには北海道に渡り、函館〜札幌〜小樽〜釧路と住居を変えながら、新聞記者、代用教員、校正係などの仕事を転々とする。歌人・啄木の名は通用するので、はじめは各地で歓待を受けるのだが、結局人間関係も仕事も長続きせず、いずれも彼の安住の地とはならなかった。
啄木はプライドが高く、歌人としての才能を自負していた。そのため、流浪を続ける現実の自分と「本来あるべき自分」のギャップの大きさに悩み、誰にも理解されない我が身の孤独を一人嘆いた。実際には献身的に啄木を支援し続けた金田一京助のような友人もいるのだが、そうした現実を直視できなかった。
こうして孤独感を背負い、精神的にも悩み続ける彼が自らの心情を吐露できるのが、一つは言葉(短歌)であり、一つはアルコールであった。
盛岡、北海道、東京を中心に、各地に建立された啄木の歌碑は100を超える。啄木はどんな環境においても短歌を詠むことを忘れなかった。というよりも、啄木にとって短歌とは、呼吸をするかのごとく口からこぼれ出るものだった。
彼は26年という短い生涯の中で、750首ほどの短歌を残したが、その中にアルコールを詠んだ歌は71首あるという(岩手大学公開講座「啄木の魅力、賢治の魅力」高等教育情報化推進協議会)。たとえば次のような歌が残されている。
しっとりと
酒のかをりにひたりける
脳の重みを感じて帰る
(『悲しき玩具』)
酒のめば悲しみ一時湧きくるを
寝て夢みぬを
うれしとはせし
(『一握の砂』より)
日記にある群飲の陽気さに比べ、短歌の中における啄木は一人杯を傾けている。彼にとってアルコールは、世の憂いを笑い飛ばすものである一方、境遇の惨めさやむなしさと向かい合い、自らをかみしめるものであったのだ。