歴史人物伝 歴史人物伝

日本のビール醸造の開拓者たち

盛田善平

盛田善平

ビール醸造の知識を求めて東京中を奔走
もりた ぜんぺい、1862ー1937/愛知県出身
(写真:中埜酒造株式会社 蔵)
ビール産業が軌道に乗り始めた明治中期には、異業種から転向してビール業界に挑戦する例が数多く見られる。その中で、特に際立った成功を収めたのが丸三麦酒であった。このビール会社の成功は、醸酢家であった中埜又左衛門が、甥の盛田善平にビール醸造所の建設を命じたことに端を発する。

醸造に関する知識を持っていなかった盛田は、まず研究を目的に東京へ向かうことにした。訪ねたのは、当時隆盛を極めていた桜田麦酒。しかし見学を申し込んでも許可が出ない。結局頼み込んで見せてもらったのは、外観のみだった。長期戦を覚悟した盛田は、少しでもビール醸造の知識が得られそうな場所を訪ね歩くことにした。ある時、ビール通の写真屋がいるという噂をふと耳にしたので訪れてみると、その主人は榎本武揚がロシア滞在中に記述したビール醸造法の写しをもっていた。盛田はこれを丸3日間かけて写し取り、それを元に醸造法を学んでいったのである。

帰郷後すぐに醸造を開始するが、沈殿物が多く透明なビールにならない。ようやく「丸三ビール」が完成しても、目標の販売本数を大きく下回り、創業当時は苦悩の日々が続いた。

しかし、そんな苦しい中でも盛田はビールに対する情熱は失わず、品質向上のための研究開発に尽力する。やがて1900(明治33)年には、前年に商標を「カブトビール」と改めて出展したパリ万国博覧会で悲願の金牌を受賞。一醸造者の地道な努力がもたらした栄光であった。
丸三麦酒株式会社の発起人たち

丸三麦酒株式会社の発起人たち(中埜酒造株式会社 蔵)


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