歴史人物伝 歴史人物伝

日本のビール醸造の開拓者たち

ウィリアム・コープランド

ウィリアム・コープランド

日本で初めて産業として継続的に
ビールを製造した「日本ビール産業の祖」
William Copeland、1834-1902/ノルウェー出身

ウィリアム・コープランドの人生

ウィリアム・コープランド

ウィリアム・コープランド

ウィリアム・コープランドは1834(天保5)年1月10日、ノルウェー東南部の港町アーレンダールで生まれました。本名は、ヨハン・マルティニウス・トーレセン。幼年期の1838(天保9)年、両親と共に30キロほど離れた港町・リルレサンに移り、ここで成長します。長男の彼の下には弟が3人、妹が3人いましたが、弟2人はのちに船長となって海で活躍しました。

1848(嘉永元)年、コープランドは14歳でここリルレサンの教会、のちに結婚式を挙げることになる教会で堅信礼を受けました。教会の記録には、彼の人物について「勤勉、実直」と記されています。堅信礼を受けたノルウェーの他の子弟と同様、職につくことになった彼は、ビール醸造を選んで5年間の徒弟修業に入りました。どこの町の醸造所かはっきりわかりませんが、ノルウェーのどこかで、高名なドイツ人の親方から醸造技術を仕込まれたといわれています。

その後アメリカに渡り、ウィリアム・コープランドと名乗った彼は、横浜が開港して6年目の1864(元治元年)年に来日しました。

まず、来日した翌々年の1866(慶応2)年、牧場を経営する居留地137番の商事組合 S.ジェームズ商会(牧場と運送業経営)に出資して組合員となりました。牧場は「横浜牧場」と呼ばれ、純良な牛乳で評判でした。しかし、3人の商事組合として出発したこの商会は、翌年4月に解散し、コープランドは運送業専門のコープランド商会を居留地134番に興しました。事業は順調に発展して、資金をたくわえた彼は、1869(明治2)年、山手123番を含む土地を買い、翌1870(明治3)年、個人経営のビール醸造所、スプリングバレー・ブルワリーを建て、自分でビールをつくりはじめました。
コープランドが幼児洗礼を受けた生誕地近くの教会

コープランドが幼児洗礼を受けた生誕地近くの教会

1872(明治5)年11月、コープランドは日本から故国ノルウェーに一時帰国し、リルレサンの教会で結婚式を挙げました。花嫁はアンネ・クリスティネ・オルセン。しかし、アンネは22歳の若さで1879(明治12)年に病没します。その後、スプリングバレー・ブルワリーの経営も不振に陥り、1884(明治17)年、コープランドは醸造所を公売に出すこととなりました。

1889(明治22)年6月、コープランドは勝俣清左衛門の次女・ウメと再婚します。しばらくは自分の敷地で1875(明治8)年より開いていたビアガーデンを経営しながら、東京の磯貝麦酒醸造所の技術指導などをしていましたが、再婚して4年目の1893(明治26)年7月、数えの還暦を迎えたコープランドは妻ウメを伴って横浜を出港しました。

最初に着いたハワイにはふた月と少し滞在しただけで再び太平洋を東行、米国西海岸のサンフランシスコを経て、中米グアテマラの太平洋側の港、サンホセに到着したのが11月のことでした。高原の町、首府グアテマラ市のホテルに到着したとき、コープランドは僅か20ドルたらずしか持っていませんでした。

この地に日本の品物を持ち込み、事業を開くために300ドルほどの資金が必要であったコープランドの元に、5ヶ月前にカナダのバンクーバーからやってきて、日本の品物を販売する事業を興していた旧友が現れ、共同経営を持ちかけてきました。コープランドはその勧めに応じ、その一隅を借りて店を開きます。クレープ(縮地綿布)、すだれ、うちわ、それに絹製品や寝具類など、珍しい日本の品々が人々の視線を集めました。

しかし間もなく、手持ちの商品は底をつき、依頼した商品もうまく入荷せず、クリスマス・セールや新年の大売り出しで大商いを目論んでいたコープランドに一大打撃を与えることとなりました。それに、はじめのうちこそ物珍しさから人々が訪れもしましたが、半年もすれば客足もとだえがちとなり、もはや慢性化した品不足もあって開店休業の状態に陥りました。また時折入荷しても容赦なく課税され、経営難に拍車をかけたのです。やがて、コープランドは持病のリウマチが悪化。彼の商売への情熱は、徐々にさめていきました。

1902(明治35)年1月、病身のコープランドは、横浜・大桟橋のタラップを降りました。同じ横浜の港をたってから8年余の歳月が流れていました。石川町に身を落ちつける間もなく、翌2月、コープランド没。68歳でした。

コープランドのビール醸造所の土地を引き継いだジャパン・ブルワリーは、先達の死に際し、その葬儀一切をとりしきることで報いました。

未亡人となったウメは東京・麹町に両親と暮らし、婦人帽子などの装飾業を営みましたが、夫の死より6年後の1908(明治41)年、39歳の若さで病没しました。

ふたりはいま、ともにその半生を送った横浜の町を見おろす山手の外国人墓地に眠っています。
コープランドの墓

コープランドの墓


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