歴史人物伝 歴史人物伝

日本のビール醸造の開拓者たち

ウィリアム・コープランド

ウィリアム・コープランド

日本で初めて産業として継続的に
ビールを製造した「日本ビール産業の祖」
William Copeland、1834-1902/ノルウェー出身

スプリングバレー・ブルワリーの経営

1876年6月16日付『ザ・ジャパン・ガゼット』紙に掲載した開業広告

1876年6月16日付『ザ・ジャパン・ガゼット』紙に掲載した開業広告

ババリア(ドイツ南部、オーストリアとの国境付近の地域)生まれのドイツ人醸造技師ヴィーガント(E. Wiegand)は、横浜山手46番のビール醸造所、ジャパン・ブルワリーの支配人兼醸造技師となる契約を米国ですませて1869(明治2)年に来日しました。しかし、醸造所の事業主とソリが合わず退職し、次に横浜山手68番の醸造所、ヘフト・ブルワリーに雇われ、醸造技師として働きました。しかしここでも折り合いが悪く、雇い主のヘフトに解雇され米国へいったん帰ります。2年後に再び来日し、今度はヘフト・ブルワリーを賃借して自分で事業主となり醸造を始めました。この醸造所はコープランドの醸造所とは400メートルくらいの距離でした。

ふたつの醸造所はたちまち競争を始めました。ビールの売値が安くなったうえに、日本人労働者への賃金支払がふえて、互いに利益を減らしていきます。1年後、コープランドはヴィーガントに競争の無駄を説き、商事組合の結成を呼びかけました。ヴィーガントはこれに応じ、1876(明治9)年6月15日、コープランド・アンド・ヴィーガント商会が設立されました。『ザ・ジャパン・ガゼット』に載せた開業広告には、二人は今後「山手123番スプリングバレー・ブルワリーにおいて」事業を行う、とあります。二人の業務の分担は、コープランドが支配人、ヴィーガントが醸造担当でした。営業、会計、資材購入などはすべてコープランドの仕事でした。

広告によると売り出したビールは6種類で、イギリス風のビール3種(ペールエール、ポーター、ジンジャエール)、ドイツ風のビール3種(ラガービール、ババリアンビール、ボックビール)でした。さらに、ビールからつくったモルトビネガーを、日本、中国に寄港する艦船向けに売り出しました。酵母やパン種といった醸造の副産物もよく売れたようで、酵母は1クォートにつき10セントと広告されています。生の火酒(ロウ・スピリッツ)も製造、販売しましたし、ワニスやビール醸造用原材料も販売品目に入っています。

日本各地で日本人がビール醸造に乗り出したことを見てとったコープランドは、さっそく、ビール醸造用品の販売に手をつけました。大麦、麦芽、ホップ、清澄剤として使われたアイリッシュ・モス、コルク、樽、口金のほか、麦芽粉砕機、びん詰機、コルク打栓機などの機械類まで販売しました。ほとんどがアメリカ製で、彼が輸入したものでした。
1876年6月16日付『ザ・ジャパン・ガゼット』紙に掲載した開業広告

1876年6月16日付『ザ・ジャパン・ガゼット』紙に掲載した開業広告

「ババリアンビール」のラベル

「ババリアンビール」のラベル(丸善雄松堂株式会社所蔵)
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ビールの販売は、地元の横浜では1日2回、ビール馬車が得意先を巡回するかたちで行われました。国内ではこのほか東京、長崎、神戸、函館、海外では上海、サイゴン(現在のホーチミン)へ出荷されました。東京の代理店はのちに「桜田ビール」をつくった金沢三右衛門が請け負いました。5ガロン入りや10ガロン入りの樽詰ビールのほか、びんビールも販売されました。

しかし、商事組合コープランド・アンド・ヴィーガント商会は存続5年の約束で出発したにもかかわらず、3年半で解散することになります。1879(明治12)年夏、ヴィーガントは、組合の解散と組合財産の分配を米国総領事裁判所に請願しました。裁判長も解散が双方の利益に合致すると考え、コープランドも解散に同意したため、翌年1月組合は解散され、スプリングバレー・ブルワリーは公売されましたが、コープランド自身により落札され、彼の手で事業は続けられることになりました。しかしこの裁判で彼は多額の失費をこうむり、また、たくさんの愛飲家を失ったため、資金繰りに苦しむことになりました。

1881(明治14)年になると、コープランドは日本人向けに味の淡白な、値段も安いビールを特醸しました。さらに、1882(明治15)年には日本でのビール普及の変化に注目、日本語新聞にはじめての広告を出しました。日本人向けの販売を始めたのです。

しかし、経営不振は続くばかりであったため、コープランドは自分を醸造技師として雇うことを条件に、スプリングバレー・ブルワリーを日本人に売りたいという構想を持ち始めました。自分のつくったビールを日本人の手で全国に販売したいと考えたのです。そのため、1882(明治15)年から日本人の買い手との交渉をくりかえしましたが交渉は成立しませんでした。そのような中、コープランドは借金返済のため、1884(明治17)年には醸造所公売という事態に追い込まれ、ついにスプリングバレー・ブルワリーを手放すことになりました。

1885(明治18)年、この醸造所のあとに再建をもくろんだ会社が誕生しました。ジャパン・ブルワリーです。ジャパン・ブルワリーは1888(明治21)年、明治屋を国内総代理店として「キリンビール」を全国に発売しました。コープランドの構想は彼の手では実現しませんでしたが、ジャパン・ブルワリーによって実現されたのです。

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