歴史人物伝 歴史人物伝

日本のビール醸造の開拓者たち

野口正章

野口正章

私財を投じてビール産業に参入
のぐち まさあきら、1849ー1922/山梨県出身
(写真:山梨県立博物館 蔵)
コープランドの登場により、全国各地でビール事業に着眼する人々が続出した。最も早かったのが大阪の渋谷麦酒と甲府の三ツ鱗麦酒。特筆すべきは三ツ鱗麦酒の経営者兼醸造者、野口正章のビールに対する凄まじいまでの情熱である。

野口はまずビール醸造に必要な道具類を横浜で調達した。しかし、交通の便が悪く甲府へ運ぶことができない。運搬に際し、私財を投じて新道を切り開いた場所もあったという。原料の調達では、甲府産の大麦と笹子峠に自生するホップを用いようとしたが失敗。結局わざわざ輸入品を取り寄せた。また醸造技術もなかったため、ウィリアム・コープランドを甲府に呼び寄せ、約1年間指導を受けて身につけたという。

試行錯誤の末やっと完成したのが「三ツ鱗」印ビール。しかし当時ビールを飲んでいた人の多くは都会人で、甲府では売れなかったという。東京に販売店を設け新聞広告を打ち出すなど、販路の拡大には多大な費用を要した。ちなみに広告という語を初めて用いたのは、この野口である。

苦労して醸造したビールの品質は非常に好評だった。1875(明治8)年の京都府博覧会では、審査員から「非難の余地はない」と評され、銅牌を受賞している。

1901(明治34)年、三ツ鱗麦酒は出費がかさみ、事業撤退を余儀なくされる。しかし、彼の工場から優秀な醸造者が数多く輩出され、その後のビール産業の発展に少なからぬ功績を残したことは、注目すべき点である。
「三ツ鱗」印ビールの広告チラシ

「三ツ鱗」印ビールの広告チラシ(山梨県立博物館 蔵)


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