復興期に登場する多彩な清涼飲料
終戦を迎えると、国民の生活を安定させるため、農地改革などの戦後の制度改革が実施される。食においても、1947(昭和22)年に食品衛生法が制定された。この中で、清涼飲料に対する規制が大きく緩和されたことから、以後新製品が多数登場し清涼飲料業界は活気づいていく。
1949(昭和24)年の「バャリースオレンヂ」輸入開始をきっかけに、昭和20年代後半から30年代にかけて、果汁入り果実飲料の生産量が急増し大きなブームが生まれた。この頃から人々は、清涼飲料に対して、単なる甘味だけではなく、美容や健康への効果も求めるようになる。その背景には、経済の発展とそれに伴う生活の向上による人々の欲求の変化があった。
同じ頃、注目を集めたのが粉末ジュースである。砂糖ではなく湿気に強い精製ぶどう糖に味を付け、一杯分を袋詰めしたもので、当時普及し始めたインスタント食品とあわせて人々に受け入れられていった。
こうした新製品の勢いに押されていた炭酸飲料だが、昭和30年代後半にコーラが本格的に登場すると、再び人気を集める。コーラが最初に日本に持ち込まれたのは大正時代だが、現在のように自由に製造・販売ができるようになったのは、1961(昭和36)年以降のことであった。店頭はもちろん、行楽地に掲げた看板やメディアを通した宣伝の効果もあり、たちまち人気を確立。わずか数年で庶民に広く浸透していった。
戦後において、日本人の食生活に大きな変化を与えたのが、昭和20年代以降に見られる家庭電化の流れだ。特に重要なのが電化製品における「三種の神器」のひとつといわれた冷蔵庫の登場である。それまで主に飲食店で飲まれていた飲料が、家庭や行楽においても楽しめるようになり、需要も大きく増大していった。
一世を風靡した渡辺製菓(現・クラシエフーズ)の「渡辺ジュースの素」。そのほかにも、粉末ジュースの素がいろいろと発売され、子どもたちに好まれた。(北名古屋市歴史民俗資料館 提供)
給食とともに定着した牛乳
終戦後、同じように大きく需要が伸びたのが牛乳である。戦後まもなく全国的に学校給食制が始まると、それにともなって牛乳の消費が急激に増大した。当時の給食で飲まれていた牛乳は、22グラム程の脱脂粉乳を180mlに薄めて溶かしたものが主であった。物が不足する中、脱脂粉乳はユニセフ(国連児童基金)やアメリカの民間団体の援助を受けながら支給されていた。その後、1964(昭和39)年には国産牛乳へと切り替えられ、容量も今と同じ200mlへと変わっている。
1950年代以降は、国内でも積極的に有畜農業が推進され酪農乳業が発展、紙容器の普及や殺菌・消毒技術の向上もあり、乳業は大きく発展していく。
流通面では宅配から店頭販売への移行が進み、スーパーマーケットや生協等の量販店が主なチャネルとなっていく。また、加工乳や乳飲料など多様な乳製品が登場する。
こうして、牛乳は手軽に買える健康飲料として、また調理にも利用できる食材として定着していった。
1950年9月以降、アメリカ陸軍省の占領地域統治救済資金(ガリオア資金)により、都市部の小学校から順次パンによる完全給食が実施され、パンと脱脂粉乳などで生徒の栄養補給が可能となった。(写真提供:共同通信社)