「キリンレモン」は1928(昭和3)年、キリンブランド初の清涼飲料として発売されました。
明治時代の日本では、炭酸飲料といえばラムネがほとんどでした。明治時代末期、ビール会社をはじめとした大手業者が次々と「サイダー」、「シトロン」などの炭酸飲料を発売しました。その結果、ラムネ以外の炭酸飲料が大正時代にかけて徐々に浸透していったのです。
そのようななか、キリンビールは1926(大正15)年に横浜・生麦に横浜新工場を建設しました。翌年には横浜工場内に清涼飲料工場の建設をはじめ、1928(昭和3)年に完成しました。
当時、清涼飲料のびんには色がついていました。ところが、「キリンレモン」は無色透明であることをアピールするため、無色のびんに詰められていました。このびんは、朝鮮半島から運ばれた特殊な砂を使ってつくられました。また、原料にもこだわり、砂糖は主に台湾産の白ザラメを用い、クエン酸は主としてイタリア産のものを輸入しました。また、光線による品質劣化を防ぐため、製品は一本ずつ包装して出荷されました。バックラベルには「絶對ニ人工着色ヲ施サズ」と記載されていました。
1939(昭和14)年に勃発した第二次世界大戦は、清涼飲料事業にも大きな影響を与えました。同年、清涼飲料は嗜好飲料として「ぜいたく品」とみなされ課税の対象となり、翌1940(昭和15)年には統制価格が適用されます。その後、燃料統制などの影響もあって工場の稼働率は低下し、「キリンレモン」の生産はほぼ中止状態に陥ったまま1945(昭和20)年の終戦を迎えることとなったのです。
戦後も清涼飲料は価格統制の対象となり、清涼飲料税も高率でした。また、原料となる業務用砂糖は配給制で、当時「純糖(砂糖だけを使用)」を謳っていた「キリンレモン」の生産は思うようにできませんでした。
しかし、1950(昭和25)年11月に価格統制と清涼飲料税が廃止され、1952(昭和27)年には砂糖が自由販売となりました。同年4月、「キリンレモン」のラベルを一新し、ネックラベルに「純糖」の文字を入れました。
1958(昭和33)年6月、「キリンレモン」のびんは無色透明のプリントびんになりました。現在の「キリンレモン」びんの原型となったデザインです。1963(昭和38)年には、自動販売機用の新たな「キリンレモン」200mlびんを設計し、発売しました。
そして、同年4月、自動販売機で清涼飲料を販売する会社、自動販売サービス株式会社(現・キリンビバレッジ株式会社)が設立されました。自動販売サービスは、特約店を経由しないルートセールスで国産の清涼飲料を販売する、日本で最初の会社でした。
1965(昭和40)年には自動販売機用のびんを「キリンレモンクレール」に名称変更し、デザインも変更しました。「キリンレモン」は1960年代に順調に売り上げを伸ばし、1973(昭和48)年には透明炭酸飲料のトップブランドになりました。
その後、缶やペットボトルに容器は変わりましたが、「キリンレモン」のブランドは90年以上の時を経て現在に引き継がれています。