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紅茶の話

第4話 英国の王侯貴族と紅茶

3 午後の紅茶を始めた貴婦人[19世紀 アンナ・マリア]
ティーテーブルの置かれたドローイング・ルーム

ティーテーブルの置かれたドローイング・ルーム

王侯貴族は、現在でいうところのタレントのような存在でした。王宮の建築様式からファッション、食文化に至るまで、一般市民に与える影響はたいへん大きなものだったようです。茶を飲む喫茶の文化も、王家から貴族、そして一般市民へと広がっていきました。その流行のきっかけとなったひとつに、アフタヌーンティーの習慣があげられます。これを始めたのは、7代目ベッドフォード公爵夫人のアンナ・マリア(1783~1857)でした。

ティーテーブルの置かれたドローイング・ルーム

ティーテーブルの置かれたドローイング・ルーム


その頃の貴族の食生活は、イングリッシュ・ブレックファーストと呼ばれる盛りだくさんの朝食をとり、昼食はピクニックなどで少量のパンや干し肉、フルーツなどで軽くすませる、というものでした。そして、社交を兼ねた晩餐は、音楽会や観劇の後で、夜の8時頃になっていたので、昼食から夕食までの空腹はかなりなものになっていました。そこで公爵夫人は、空腹を防ぐため、午後の3時頃から5時頃の間に、サンドイッチや焼き菓子を食べ、同時にお茶を飲むことをはじめました。最初はひとりだけの楽しみだったようですが、やがて、邸を訪れる婦人たちをドローイング・ルームと呼ばれる応接間に通し、もてなしたところ評判となり、アフタヌーンティーは貴婦人たちの午後の社交として定着していきました。
ベッドフォード公爵夫人アンナ・マリアの肖像

ベッドフォード公爵夫人
アンナ・マリアの肖像

ベッドフォード公爵邸

ベッドフォード公爵邸

やがてイギリスは、インドやスリランカ(当時はセイロン)での茶の栽培にも成功し、わざわざ中国から買わずにすむようになります。一般の人々でも手頃な価格でお茶を楽しめるようになり、アフタヌーンティーは生活の中にとけこんでいくようになります。そして紅茶は、新天地のアメリカで、さらなる進化をとげることになります。


ワンポイント豆知識


アフタヌーンティーのシンボル・三段重ねティースタンド

アフタヌーンティーのシンボル・三段重ねティースタンド
アフタヌーンティーといえば、誰もが思い浮かぶのが三段重ねのティースタンド。そこにはサンドイッチ、スコーン、ケーキなどのティーフードが、上から順番に置かれています。こうすれば、小さなティーテーブルでも場所をとらずに、沢山のフードが食べられます。これは、貴族のアフタヌーンティーが、ドローイング・ルームという応接間で開かれたことに由来しています。
ダイニングと応接間を別々に持つ貴族は、居間に食卓があるのはまずしい家庭だと考え、自分たちの裕福さを示すためにも、優雅な応接間で、デザイン性を重視した小さなティーテーブルでお茶を出しました。ティーフードは、最初の頃はひとつひとつが召使いによって運ばれていましたが、客によって食べるペースが違うため、全てを盛り合わせることができるスタンドになったようです。
どの順番で食べるかということは厳密には決まっていないですが、通常は、塩分の多いものからデザートへと進んで一巡とするのが一般的。コース料理と考えは同じです。ただ、次の皿に移ってから元に戻るのはマナーに反するとされていました。

アフタヌーンティーのシンボル・三段重ねティースタンド


コラム


「午後の紅茶」のラベルに描かれた貴婦人はアンナ・マリア

貴婦人アンナ・マリア
イギリスの紅茶史に大きな影響を与えた3人の女性たち。そして、世界で最初のペットボトル入り紅茶として誕生した「キリン 午後の紅茶」を世に送り出したのも、入社2〜4年目の女性ばかり3人のグループでした。
技術の壁を乗り越えて実現した「透明で濁りのないきれいな紅茶色」をしたアイスティーは、英国貴族の優雅な習慣であった"アフタヌーンティー"にちなみ「午後の紅茶」と名付けられ、その創始者であるアンナ・マリアをシンボル・マークとして、1986(昭和61)年、発売を開始しました。以来、アンナ・マリアの肖像はパッケージで微笑み続けています。

貴婦人アンナ・マリア


(資料提供:いずれも紅茶研究家・磯淵猛氏)

<出典>
この回は、紅茶研究家・磯淵猛氏の『一杯の紅茶の世界史(文春新書)』、『紅茶事典(新星出版社)』、『日曜日の遊び方〜紅茶、知って味わう(雄鶏社)』の原稿を出典として編集、書き起こしました。

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