光太夫らをのせた神昌丸は駿河沖で暴風雨に見舞われ、そのまま七ケ月も太平洋をさまよったあげくに、アラスカとロシアの間まで流された。
(広重『富士三十六景 駿河』より)
伊勢の船頭だった大黒屋光太夫(1751-1823)。
ロシアへ漂着後、ひょんなことから豪商に間違われ、上流階級の人々に助けられる。帰国後の記録には、ロシア人は茶に砂糖とミルクを入れて飲むと報告。日本人として最初に「紅茶」を飲んだとされている。
光太夫らをのせた神昌丸は駿河沖で暴風雨に見舞われ、そのまま七ケ月も太平洋をさまよったあげくに、アラスカとロシアの間まで流された。
(広重『富士三十六景 駿河』より)
伊勢の船頭だった大黒屋光太夫(1751-1823)。
ロシアへ漂着後、ひょんなことから豪商に間違われ、上流階級の人々に助けられる。帰国後の記録には、ロシア人は茶に砂糖とミルクを入れて飲むと報告。日本人として最初に「紅茶」を飲んだとされている。
万全の防寒具をまとって帰路に向かう光太夫。馬には「茶と砂糖」が積まれた。
女帝に帰国を許された光太夫は、金のメダルや金時計と共に沢山の茶と砂糖などの餞別を貰います。帰国の出発地オホーツクに向けての旅の途中も光太夫は茶を飲んだと思われます。ヤコーツカ(ヤクーツク)に向かう様子を光太夫は「食物は皆馬に乗せ、茶と砂糖を多く貯へ、砂糖は袋に入、たへず腰につけ、渇する時はこれを含みて喉をうるほし、食物は麦の焼餅、飲物は水をもとめて飲む也」と報告しています( 『北槎聞略』 より)。上流階級の人々に助けられた光太夫は早くからロシアの茶と砂糖に親しんでいたと思われます。無事に生還できた光太夫は、幕府に引き取られてからは外界とあまり接触ができず、日本で唯一ロシアの上流階級と深交をもった功労者であったにも関わらず、その存在、武勇伝は久しく語られることがありませんでした。1892(明治25)年、石井研堂が『日本漂流譚』として光太夫を紹介してから、徐々にその存在が知られるようになります。下の挿絵はその研堂の著書より、ヤコーツカへ向かう場面。資料提供:大黒屋光太夫記念館(鈴鹿市教育委員会)
11月1日の「紅茶の日」は最初に紅茶を飲んだとされる光太夫にちなむ。
現在、紅茶を楽しむ日として親しまれている11月1日の「紅茶の日」は、大黒屋光太夫がエカテリーナ女帝に謁見した際に、正式なティーパーティに招かれた最初の日本人であったのではないか、という伝承に由来して設けられた記念日です。1983年(昭和58)年に日本紅茶協会が策定しました。この日は現在でも紅茶を楽しむ日として多くの人に親しまれています。この後、アメリカの領事ハリスが日本へ献上しますが、それ以前に、光太夫は茶と砂糖を飲用していることにちなんでいます。資料提供:大黒屋光太夫記念館(鈴鹿市教育委員会)
帰国した光太夫とロシア使節一行(右から二番目が光太夫、一番左が命の恩人のうちの一人、使節アダム・ラクスマン)、彼らロシア人たちは、鎖国後の日本に訪れて交易を求めた最初の外国人となった。
幕府に紅茶を献上したアメリカ総領事ハリス
幕府に紅茶を献上したアメリカ総領事ハリス
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