使命のために脱獄した意志の人
ペリー来航直前の日本にあって、医学・洋学の第一人者として順風満帆かと思われた長英の人生だが、次第にそれは波瀾に富んだものへと変わっていった。
1839(天保10)年、36歳の長英は投獄の憂き目に遭う。幕府の異国船打ち払い方針の危険性を警告した『戊戌夢物語』が、幕府批判にあたるという理由からだった。
長英の刑は「永牢」、つまり無期禁固刑である。しかし、洋学の普及を自らに課している彼は、次第に獄内の生活に耐えられなくなった。「いつまでもこんなところに囚われているわけにはいかない……」。彼はやがて、脱獄を決意する。
決行は1844(弘化元)年の8月。長英は牢番の雑役夫を買収し、江戸小伝馬町の牢屋敷に放火させ、見事脱獄に成功する。
その後、各地の支持者を頼りながら日本中を転々とする中で、翻訳書や兵書を数多く書き上げていった。そして、逃亡生活の6年目、47歳になった長英は、火薬で顔を焼き人相を変えて、江戸での潜伏生活を始めた──。
しかし、長英の翻訳書への高い評判を、幕府が見過ごしているはずがない。彼の所在は、幕府奉行所から追及されるところとなった。
遠山金四郎が率いる南町奉行所によって長英の居宅が包囲されたのは、1850(嘉永3)年10月のこと。ものものしい装備の捕手たちに踏み込まれた長英は、自殺したとも十手で殴られ殺されたともいわれている。