歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

アメリカの貴婦人の人気をさらいビールを酌み交わす姿を写されたサムライ・立石斧次郎
(たていし おのじろう)1843-1917/東京都〈江戸〉出身

米婦人を魅了した人気者「トミー」

幕末、勝海舟や福澤諭吉らも随行した1860(万延元)年の遣米使節団には、一人の愛すべきキャラクターがいた。人なつっこい笑顔で、使節団の乗るポーハタン号のマスコット的存在となった17歳の少年、愛称「トミー」である。渡米後、トミーの人気はアメリカ全土に広まり、幕末期のアメリカで最も有名な日本人となった。

トミーは本名を立石斧次郎という。幕府からオランダ語通詞として使節団に加わっていた養父の立石得十郎が、「見習い通訳」として斧次郎を推挙したのが使節団参加のきっかけだった。斧次郎の幼名が為八だったことから同行者が「ため」と呼んでいたが、米海軍士官たちにはこれが「トミー」と聞こえたようだ。

いつも快活に行動し、アメリカ人が相手でも気軽に話しかけ談笑するトミーは、あっという間に船内の人気者になった。彼は渡米以前、横浜運上所(税関)で外国人や日本人商人を相手に雑務に従事しており、そこで、英語力のみならず社交性や交渉力を身につけていたのだろう。ちなみに、当時横浜を訪れた福澤諭吉が、斧次郎から英語の発音を習ったという逸話も残されている。

アメリカでのトミーは、行く先々で大歓迎を受けた。特に貴婦人の注目を大いに集め、トミーが泊まるホテルには膨大なラブレターが届けられ、舞踏会などでは、彼が近づくと女性陣が息を飲んで静まりかえるほどだったという。

ニューヨーク・ブロードウェイのパレードで女性からもらったハンカチを群衆に向かって振ったり、記者に対し「僕もちょんまげをやめて海軍士官学校に入り、美しいヤンキー女性と結婚したいものだ」とリップサービスをするなど、トミーの持ち前のユーモアが評判に拍車をかけた。その勢いはとどまるところを知らず、彼を「お忍びで使節団に参加した日本のプリンス(王子)である」とする一種の都市伝説まで生み出した。

使節団は、約2カ月の滞在ののち、ニューヨークを出港する。トミーにとっては生涯忘れることのできない体験であった。
『万延元年遣米使節図録』より、トミーと貴婦人の図

『万延元年遣米使節図録』より、トミーと貴婦人の図(横須賀市自然・人文博物館 蔵)

ビールを酌み交わす姿を写された最初で最後のサムライ

1枚の写真がある。笑顔でビールを酌み交わす二人の侍──。コップを手に持つ右側の人物がトミーこと立石斧次郎(当時は米田桂次郎と改名)、左側でビールを注いでいるのが彼の兄・小花和重太郎である。時は下って1867(慶応3)年、将軍慶喜に従っていた彼らが、大坂城に在ったときの写真だという。ちょんまげ姿の武士がビールを飲む様子を撮影した写真としては現存する唯一のものであり、写真史から見てもビール文化史から見ても非常に貴重なショットだ。

アメリカから帰国したトミーは、姓を母方の米田に改め、幕臣として活躍する。一時はアメリカ公使ハリスじきじきの指名により、公使館の通訳を務めていた。その後、歩兵差図役頭取勤方、いわゆる将軍親衛隊となった彼は、慶喜とともに大坂城入りし、ここでアメリカ公使が将軍に謁見する際の通訳という大役を果たすことになったのである。

上記の写真が撮影されたのは、ちょうどこの頃であった。撮影されたビールはアメリカ製といわれている。トミーはアメリカへの渡航時や滞在中にアメリカ製ビールを飲んでいるだろうから、その味は郷愁を誘うものだったに違いない。1867(慶応3)年は江戸時代最後の年であり、同年10月には慶喜が天皇に大政奉還を上表している。そうした激動の最中にあって、兄と笑顔で酌み交わしたビールの味は、一時だけでも憂き世を忘れさせてくれるものだっただろう。
ガラスコップで兄の小花和重太郎(左)とビールを酌み交わす立石斧次郎

ガラスコップで兄の小花和重太郎(左)とビールを酌み交わす立石斧次郎(小花和平一郎氏 蔵)

アメリカで「トミー・ポルカ」が大ヒット

「トミー・ポルカ」の楽譜表紙を飾るトミー肖像

「トミー・ポルカ」の楽譜表紙を飾るトミー肖像(横浜開港資料館 提供)


幕府の斜陽の影は、トミーの身にも差しかかることとなる。慶喜に付き従い大坂から江戸に引き揚げたトミーは、幕臣として戊辰戦争に参戦した。今市(現・栃木県日光市)に進軍してくる官軍を、兄の重太郎とともに迎え撃つ。しかし、奮戦むなしく兄は戦死し、トミー自身も右ももを撃ち抜かれたものの辛くも九死に一生を得たのであった。

維新後、長野桂次郎と改名したトミーに、再度アメリカを訪問する機会が訪れた。1871(明治4)年、欧米列強各国の視察と条約改正とを目的とした岩倉遣外使節団への参加を、新政府から要請されたのだ。

トミーは約10年ぶりに訪れたアメリカの地で、自らの名前が冠された歌の存在を知った。「トミー・ポルカ」と題された曲だ。その歌詞は以下のようなものだった。

通りがかった
人妻も娘も、思わず夢中で取り巻く
かわいい男、小さな男
その名はトミー、かしこいトミー、黄色いトミー、
日本からやってきたサムライ・トミー

(赤塚行雄著『君はトミー・ポルカを聴いたか』)


この曲は、海を渡ってきたサムライ使節団、およびトミーの人気ぶりを伝える曲として、幕府遣米使節団が帰国したのちに全米で大ヒットし、社交界の婦人たちに歌われ、しきりに舞踏会で演奏されたという。

しかし、トミーの2回目の渡米がアメリカ市民の間で話題になったという資料は残されていない。洗練された社交性を身につけていたトミーは、使節団内の薩長出身者からは「軽々しい人間」と白い眼で見られることが多く、派手な行動を控えたのかもしれない。そもそも、南北戦争が終結したばかりのアメリカにとって、条約改正を掲げた岩倉遣外使節団は「招かれざる客」だった。10年前のような熱狂的な歓迎など望むべくもなかったのだ。

その後、ハワイ移民官として活躍するなど、英語力を生かした仕事に従事したトミーは、晩年、西伊豆の戸田(へだ)村(現・静岡県沼津市戸田)で孫たちに囲まれて暮らした。戊辰戦争などの話はよくするものの、渡米時のこと、「トミー・ポルカ」のことを話すことは全くなかったという。好々爺として周囲の人々に愛されたトミーは、1917(大正6)年、75歳でこの世を去った。

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