近代化の方向を決定づけた直後の死
西郷とともに二人三脚で歩んできた大久保だが、蜜月時代の終わりは使節団の帰国後、唐突に訪れた。
契機は1873(明治6)年に勃発した征韓論争であった。日本からの修好要求を拒み続ける朝鮮に対し、西郷は自ら使節団長となり交渉に当たりたいと政府に要求する。しかし、内治優先を主張する大久保は、この朝鮮への使節派遣に真っ向から反対した。明治政府を二分する政争にまで発展したこの論争は、結局、宮廷工作に優れた大久保が政治的勝利をつかみ、西郷は官職を辞して下野することで決着を見る。鹿児島へ帰郷しようとする西郷を必死に止めた大久保だったが、西郷が「どうしてもいやだ」と突っぱねると、最後には「勝手にしろ」と応じたという。30年以上にもわたりともに歩み続けた盟友との、あまりにもあっけない決別だった。
それから4年後の1877(明治10)年、西郷が、不平士族とともに鹿児島で反政府の旗幟を揚げた。大久保は当初、西郷の決起をなかなか信じようとしなかったが、それが事実とわかった後には京都で総指揮をとり西郷軍の鎮圧を目指すこととなる。ここに、明治期最大の反政府反乱である西南戦争の幕が切って落とされた。
兵力に勝る政府軍の攻撃によって、西郷軍は徐々にその数を減らしていく。鹿児島の城山に追い詰められ、十重二十重の官軍に囲まれた西郷は、弾雨が降り注ぐ中、自ら腹を切った。享年51。思想家の内村鑑三がのちに「武士の最大のもの、また最後のもの」と評した傑物の最期だった。この結果から、欧米にならって近代産業化の道を選択した大久保に軍配が上がったということができるかもしれない。紆余曲折を経ながらも、日本は着実に近代国家への道を歩み始めていたのである。それは、大久保が欧米を視察しながら見定めた未来像であるとともに、西郷が疑念を呈した日本像でもあった。大久保の勝利が、日本の近代化の方向性を決定づけたといっても過言ではない。
西南戦争終結からわずか8カ月後、大久保は東京の紀尾井坂で暗殺される。主犯の島田一郎は、西郷隆盛を敬愛する石川県の士族であった。西郷の死後も「西郷の心情は俺だけがわかっている」と言い続けていたという大久保だが、運命とは皮肉なものである。