啄木の詩才を愛す
京助と啄木の友情物語は、二人の故郷盛岡から始まる。
盛岡市四ツ家町に生まれた京助は、1892(明治25)年に盛岡高等小学校に入学。その三年後、入学してきた啄木と出会った。文学青年であった京助は、若くして詩才にあふれる啄木と意気投合し、盛岡在住の間に短歌の同好会「白羊会」を結成している。
その後東京帝国大学に入学した京助は、上田万年らの講義に突き動かされ、言語学、特にアイヌ語研究の道を志すようになる。1906(明治39)年にはアイヌ語調査のため、初めて北海道に渡り、翌々年には初の論文「あいぬの文学」を発表した。
こうして言語学者としての道を歩み始めて間もないときに、盛岡より啄木が上京した。啄木との再会は京助の生活を一変させた。生活力に乏しい啄木のために、京助は身銭を削ることになる。食事をおごる、書籍代を立て替える、さらには前述の通り、身代を売り払ってまで下宿代を工面した。
やがて京助は結婚し家庭を持つのだが、それでも啄木への生活補助は続いた。京助の息子・金田一春彦の著書『父京助を語る』によれば、京助の妻は後年になって当時をふりかえり「甘い新婚生活の夢はたちまち破れ、そこへ垢抜けしない男が親友と称して入りこんで、人のいい亭主からなけなしのお金を持っていくのでは、恨み骨髄であった」と語っていたという。
京助は、なぜそこまで啄木に尽くしたのか。
一つには、啄木の詩才にほれ込んでいたことがあげられる。二人は10代のとき同じ文学の道を志したが、京助は中途で断念することになった。それは言語学という新たな道が開けたためでもあったが、啄木の天賦の才を目の当たりにし、自分の才能に見切りをつけた面も大きかったようだ。だからこそ啄木の生活を支え、その大成を支援することを自らの使命としたのである。
もう一つは、啄木が東京における唯一無二の同志だったためだ。京助の方が先に上京していながら、彼に東京での遊びを教えたのは啄木であった。二人はしばしば浅草などの盛り場に繰り出しては、映画館や見世物小屋をまわり、繁華街でビールなどのアルコールを嗜んだ。その様子は、啄木が友である京助を詠んだ歌にうかがえる。
興来れば
友なみだ垂れ 手をふりて
酔漢のごとくなりて語りき
京助がほろ酔い気分で、啄木に自らの夢や政治への憤りを語っている姿が彷彿とする。もちろん飲食代もたいていは京助が支払うのだが、それはたいした問題ではなかった。京助にとって啄木は、竹馬の友であるとともに、東京で共に立身を目指す同志であったのだ。それは決して金銭には換算することはできない関係だったのだろう。