「銭形平次」に生きる庶民の心
音楽評論によって文筆家として名を馳せた胡堂は、1931(昭和6)年から『文藝春秋 オール読物号』に『銭形平次捕物控』の連載を開始。49歳から75歳までの26年間にわたって、長・短編合わせて383編もの作品を世に残した。
編集長から岡本綺堂の『半七捕物帳』のような作品を依頼された胡堂は、主役のキャラクターづくりから取り組んだ。構想を練って町を歩いていた時、工事現場に「錢高組」という幕がはりめぐらされており、ここから名字を「銭形」に決定。名前は平民の次男坊だから「平次」。「銭」という文字から、『水滸伝』の登場人物・没羽箭張清(ぼつうせんちょうせい)の投石をヒントに、決め技の「投げ銭」が考え出された。ここに「銭形平次」が誕生する。
平次は「罪を憎んで人を憎まず」を地でいく人情家。時には犯人を哀れみ目をつぶることもある。時代小説には大抵盛り込まれる、チャンバラシーンも少ない。それは、弱者や貧しいものへの心遣いを忘れない、胡堂の性格と思いやりの表れでもあった。
胡堂は1963(昭和38)年、肺炎のため逝く。その死の2カ月前、胡堂は自身の財産を寄付し、若い人材の育成と新しい文化への助成を目的とした「野村学芸財団」を設立した。胡堂は学生時代、父の死によって学資不足に追い込まれ、大学中退という苦汁を飲んだ。財団はそうした学生を生み出したくないという胡堂の思いから設立されたものであった。思いやりがあり、面倒見の良い胡堂の蛮カラ精神は、死の直前まで失われることはなかったのである。
彼の死後まもなく、銭形平次の石碑が神田明神に建立された。野村胡堂という温情に満ちあふれた彼の魂は、銭形平次という架空のキャラクターとともに、現在も生き続けている。