徳川幕府の復権をかけた「議題草案」
日本に帰国した西は、開成所(蕃書調所が発展した機関)の教授職に就き、将軍・徳川慶喜の政治顧問となった。
1867(慶応3)年10月13日、二条城大広間にいた慶喜からにわかに召し出される。このとき、城内では大政奉還をめぐる論議の真っただ中にあった。彼は大広間の廊下に障子屏風をめぐらして、その中に座していた慶喜の求めに応じ、イギリスの議会制度や三権分立について詳細に論じたという。
その翌日、大政奉還が実現する。しかし、このとき慶喜は新たなる政権構想を抱いていた。
11月になると、西は慶喜へ大政奉還後の政治体制を示した「議題草案」を提出する。その内容は立法、行政、天皇の権限の分立を説き、立法(議会)の長に慶喜を据えるという、日本初の憲法私案といえるものであった。政治的に追い込まれた徳川家による新国家構想として、西がこれまで培ってきた学問・知識が遺憾なく発揮されたのだ。
しかし、この起死回生の草案は、12月に発せられた王政復古の大号令によって歴史の闇に葬られてしまった。その後、西は慶喜に従い江戸へ退去。さらに慶喜の蟄居先である静岡まで付き従った。
明治維新後の彼は、兵部省出仕となり、徴兵令・軍人勅諭などに関わる。また加藤弘之や福沢諭吉らと「明六社」を結成し、多数の論文・著述を発表するなど啓蒙活動につとめた。そうした業績は、まさに「西洋の文物制度を日本人に知らしめたい」という若き日の誓いにたがわぬ活躍であった。
西が他界したのは1897(明治30)年1月31日のこと。享年69。バタビアで飲んだビールのごとく、「甚だ快」といえる生涯だったのではないだろうか。