貧しさを踏み台に世界一の騎兵隊を組織
秋山好古は1859(安政6)年、伊予松山藩士、秋山久敬の三男として生まれた。そもそもが下級藩士だった上に、明治維新によって藩が崩壊したことで生活の糧が失われ、秋山家は困窮の度を増した。
そんな折、のちに東郷平八郎のブレーンとなる好古の弟・真之が誕生。貧しいゆえにこの子を育てられないと思った父は、真之を寺に預けようとした。ところが、これをまだ10歳だった好古が「うちがお金をこしらえてあげるぞな」といって制止したのだ。
学校では成績優秀だった好古だが進学をあきらめ、生活費を稼ぐために働き始めた。ただし修学の志は高く、風呂たきや番台の仕事で稼いだ安い賃金の一部で本を買い、独学した。将来の出世を支えるハングリー精神は、幼い頃から備わっていたのである。
16歳になった好古は、「月謝と生活費がタダで、小遣いまでくれる学校がある」と耳にする。師範学校のことだった。19歳未満は試験を受けられなかったにもかかわらず、年齢をごまかして見事合格。熱心に学び卒業した後、師範学校の教師となり、月給30円(当時の1円は米2kg程度)をもらう身分となったのだ。
1877(明治10)年、好古は上京し陸軍士官学校の騎兵科に入った。当時の日本騎兵隊は、小さな日本馬20頭を用いる程度の二個大隊で、「無用の長物」と嘲られていた。そんな騎兵を志願したのは、ひとえに「少尉になれば給料がもらえる」からだった。
好古はこの士官学校時代から、すでに「酒豪」と呼ばれていた。上官に有名な酒客がおり、この人物から気に入られた彼は、夜ごと上官宅に入り浸っては朝まで酒をふるまわれていたという。
1883(明治16)年、陸軍大学校に入学した好古は、その3年後に騎兵の研究を命ぜられフランスに留学。ここでヨーロッパの優れた騎兵戦術を体得すると、帰国後は日本騎兵隊の改革に情熱を傾け、日清戦争までに騎兵七個大隊を編成した。そして、日清戦争では遼東半島で騎兵の威力をまざまざと見せつける活躍をおさめ、刷新された騎兵隊の初陣を飾ったのだ。陸軍は、これにより騎兵の必要性を認識するのである。
騎兵隊の第一人者となった好古は、ときに馬上でビールをラッパ飲みしながら進軍した。隊長が余裕の構えを見せることで、部下たちの緊張感を和らげるとともに、隊の士気高揚を図ったのだろう。