歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールで上司を歓待した明治時代を象徴する軍人・乃木希典
(のぎ まれすけ)1849-1912/山口県〈長州藩〉出身

軍隊における風変わりなビールの飲まれ方

1912(大正元)年9月13日──明治天皇大喪の日、乃木希典夫妻の殉死が伝えられた。のちに夏目漱石は小説『こころ』の中で「明治の精神は明治天皇とともにはじまり、明治天皇とともに終わった」と登場人物に語らせているが、明治天皇崩御に続く乃木の殉死は、改めて人々に明治の終焉を確認させた。

清廉潔白で、ストイックに生きた乃木が、生涯を通して嗜好したものがアルコールだった。ビールを片手に部下や友人たちと議論に花を咲かせたことも多かったのではないだろうか。

軍人とビールの関係は深い。日本の軍隊には「酒保(しゅほ)」と呼ばれる売店があり、1885(明治18)年に大阪鎮台が開設した酒保では、開設当初からすでにビールが売られていたという。軍人にビール愛飲者が多かったこと、そして乃木がビール好きだったことをうかがい知ることのできる一つのエピソードが残されている。

1898(明治31)年、四国の善通寺に新設の第十一師団長に任ぜられた乃木のもとに、文部大臣の樺山資紀海軍大将が視察に訪れた。この時乃木は師団の将校を将校集会所に集めて歓迎の宴を開いた。

その場に居合わせた当時の文相秘書官によると、宴会において実に風変わりなビールの飲まれ方がされたという。全将校一人ひとりの前にビールびんとコップが置かれ、兵卒が不動の姿勢で直立していた。樺山が集会所に入ると、乃木の簡単なあいさつの後、乃木の号令とともに兵卒によってビールが注がれ、全将校が飲む。飲みほすとテーブルにコップを置く。すると再び乃木の号令がかかってビールが注がれ、将校たちが飲む。こうして同じ号令が何度も繰り返され、ついに十何回目かが終わってみると、最後まで倒れず残っていたのは、樺山と乃木の二人だけであった。二人は顔を見合わせて笑い合ったという。
1904年11月3日、旅順で幕僚とともに天長節(明治天皇の誕生日)を祝う乃木希典(左から三人目)

1904年11月3日、旅順で幕僚とともに天長節(明治天皇の誕生日)を祝う乃木希典(左から三人目)(乃木神社 蔵)

軍旗事件が人生に及ぼした波紋

乃木は1849(嘉永2)年11月11日、江戸にあった長府藩邸(毛利屋敷)に生まれた。幼名を無人(なきと)といい、満9歳までこの屋敷で育った。

軍人・乃木に強い影響を与えたのは、父・希次(まれつぐ)である。成長してからは謹厳実直で知られた乃木も、幼少時は体が弱く、神経質で臆病な性格だった。希次は息子が軍人として耐えていけるように、厳しい教育を施した。その甲斐あって乃木は、1871(明治4)年、23歳の時に陸軍少佐となり、青年将校の道を歩みはじめる。

1877(明治10)年、明治時代最大の士族反乱である西南戦争が勃発。乃木は連隊長として熊本に向かった。激戦の最中、事件が起こる。天皇から賜った軍旗を敵である薩軍に奪われてしまったのだ。軍人としては最大の恥辱である。乃木の直接の失策ではなかったが、部下に罪をなすりつけることなく、あくまで自分の過失とした。これを深く恥じて何度も自決を図ったが、結局かなわなかった。処罰がないばかりか逆に奮戦を認められ中佐に昇進したことは、忠勤を重んじる彼にとっては何よりの苦痛であったにちがいない。

軍旗事件以降、自責の念にさいなまれていた乃木だったが、ドイツ留学によって人生は一変する。

1885(明治18)年に少将に昇進した乃木は、陸軍制度の研究視察のため、1887(明治20)年、川上操六少将とともにドイツに留学した。日本から離れ、ドイツ人の自国の伝統を大切にする質実剛健な気風に触発された乃木は、以前にも増して軍紀・軍制を重んじるようになり、自らに将校たる規範を課したのであった。ドイツ軍人が日常を軍服で過ごし、平服を用いないことに感心して、寝る時以外はすべて軍服で過ごしたという。前述の四国で樺山が視察した際に見せたビールの飲み方も、このドイツ滞在中に体験したものの一つなのかもしれない。

軍人としての精神を貫き通した人生

1894(明治27)年からの日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順攻略を担当、翌年中将に進み、1904(明治37)年からの日露戦争では大将に昇進した。いずれも多数の犠牲を伴い、日露戦争では二人の息子(長男・勝典、次男・保典)も亡くしながらも、日本を勝利に導いた。

優れた文才の持ち主としても知られる乃木は、戦場においても日記をつけていた。1904(明治37)年6月7日の日記には、日露戦争のさなか、旅順要塞攻略のため第三軍司令官として金州へと向かった乃木の心中が漢詩とともに残っている。

山川草木轉荒涼
十里風腥新戰場
征馬不前不人語
金州城外立斜陽

「道には、熾烈を極めた激戦を物語るように生々しく砲弾の跡が残り、生臭い風が吹いている。行けども行けども負傷者ばかり、馬の歩みもままならない」という意味だ。

こうして金州に到着した乃木は、戦闘の最前線だった南山の新戦場を巡視した。山の中腹には戦死者たちが仮埋葬されていた。乃木は副官に命じて携えさせたビールを墓標に献じ、生前の労苦をねぎらうように敬虔に挙手の礼をして、自らも残ったビールを飲んだ。まるで戦死者たちと酒杯をやりとりしているかのような様子であったという。この地は長男・勝典が戦死した場所でもあった。

晩年の乃木は学習院院長も務め、学生たちと寝食をともにしながら教育者として自ら手本を示した。明治天皇の崩御に殉じて、ついに自決を決意した乃木のかたわらには、きちんとたたまれた軍服が置かれていたという。軍人としての美意識と忠節の精神を貫いた男の最期であった。
日露戦争の凱旋将兵を歓迎する日比谷公園園遊会の様子

日露戦争の凱旋将兵を歓迎する日比谷公園園遊会の様子。左上には「生ビール」の文字が見える(『風俗画報』第335号 1906年2月刊/ゆまに書房[CD-ROM]版)


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