歴史人物伝 歴史人物伝

ビールを愛した近代日本の人々

ビールを交えて異文化交流を図るダルマ宰相・高橋是清
(たかはし これきよ)1854-1936/東京都〈江戸〉出身

ビールを通じた外国人とのコミュニケーション

高橋是清

高橋是清(国立国会図書館 蔵)


幕末から明治へかけての激動の時代、持ち前の前向きな精神で立身出世を果たし、優れた経済感覚で崩れかけていた日本の財政を立て直した男がいた。明治期に日本銀行総裁、大正期には総理大臣を務め、さらに昭和初期までに合計7回も蔵相を務めた高橋是清である。

彼の生涯は若い頃から波乱に満ちていた。1867(慶応3)年、英語の力を伸ばすことを志し、14歳でアメリカ・サンフランシスコへ渡航、アメリカ人夫妻のもとで暮らすことになった。しかし、その家庭の都合から、奴隷の身分で他の家庭に身売りされてしまう。渡米して1年ほどたった頃、彼は日本で江戸幕府が崩壊したことを聞きつけた。苦労の末に自分を売った相手を呼び寄せ、領事立ち会いのもと話し合った結果、奴隷契約破棄の裁決を下してもらい、何とか帰国の途についた。辛酸をなめた留学体験ではあったが、その中で身に付けた高い英語力は、やがて政界に入った後に大きな武器となるのだった。

帰国後、舞妓の三味線持ち、大学教官手伝いなどの仕事を転々とした高橋は、知り合いの紹介で運良く英語学校に教師の職を得る。幕末から明治維新にかけて、国外に門戸が開かれたことで青年から年配者にまで英語の需要が高まっており、高橋のような英語習得者は貴重な存在だったのである。ある時、生徒たちに外国人と直接英語で会話する機会を与えようと、アメリカの捕鯨船が帰港する唐津港まで繰り出したことがあった。彼はこの時の思い出を次のように書き残している。

(生徒たちの話し相手になってもらいたい旨)船長は快よく引受けて、ビールなど出したりして、接待(もてな)してくれた。すると、生徒たちは、我も我もと、学校で教わった英語の会話を繰返し繰返し話しかける。外人はそれが解(わか)ったので、応答してくれるという風で、ここに始めて自分たちの習っている英語は、本当のものであるということが分って、一同大変に喜び安心したような次第であった。
 ※原文のまま掲載。 (高橋是清著 上塚司編『高橋是清自伝(上)』)

高橋のはからいは、生徒たちにとって陽気で楽しく、そしてまたとない貴重な体験になったようだ。この時、ビールという飲み物が、外国人に不慣れな生徒たちと外国人船員たちとの、異文化交流の潤滑油になったといえるであろう。

視察先のドイツで受けた黒ビールのもてなし

その後、サンフランシスコで知遇を得た森有礼などの推薦により官僚となった高橋は、1884(明治17)年、創設されたばかりの商標登録所の初代所長に就任。さらに翌年には、同時期に作成していた専売特許条例の作成から発布までの貢献が認められ、初代専売特許所所長の地位に就く。特許制度やその組織を学ぶために、欧米に視察に行くことになったのは同じ年の冬だった。

アメリカ、イギリスに次いで、ドイツを訪れた高橋は、知人を通じてハンブルク郊外で大農場を経営する老翁、ガイエンの屋敷に招かれる。ガイエンは大切にしている酒蔵からビールをはじめとするアルコールを持ち出し、高橋をもてなしてくれた。

ガイエン翁は、我らを顧みて、「今夜の御馳走は、この鮭(さけ)を除けば、皆自分の領地内で捕れたものばかりだ。……それから貴君(あなた)はロンドンから来たのだから、ロンドンで飲みつけのお酒を御馳走しよう」といって、衣襄(かくし)からたくさんの鍵を取り出し「これが酒倉の鍵だ、これだけは人手に委せず、自分で開けて自分で取出さねば気が済まぬ」といいながら、酒倉へ行ってビールやポートワインなどを取出して来て「ロンドン人はこれが好きだから貴君(あなた)も飲んでいるだろう」と黒ビールの栓を抜いてついでくれたりした。
 ※原文のまま掲載。(高橋是清著 上塚司編『高橋是清自伝(上)』)

初対面の両者の口はアルコールによって滑らかになり、にぎやかな食卓になったのではないだろうか。荒れ地を豊潤な大農場にするまでのガイエンの苦労話などを聞いて、「老翁の経歴談を聞いて私は感激に堪えなかった」とも日記に書かれており、その晩餐が高橋にとって忘れがたいものになったことがうかがえる。

「ダルマ宰相」高橋是清のその後

こうした視察を経て日本の特許制度の整備に尽力した高橋だが、1889(明治22)年、農商務省の先輩である前田正名の依頼で、ペルーにある鉱山の経営者になるため特許局長の職を辞す。しかし、その鉱山は実はくず山だったことが判明。帰国したのち、責任を感じた前田の紹介で日本銀行に就職した。

日露戦争が始まった1904(明治37)年、高橋は駐英財務官に任命され、戦費調達という大役を言い渡された。この難題も英語力と交渉力で、見事解決。この時彼は、イギリス系銀行から現在の金額にして4兆5,000億円という大金の借り入れに成功したのだった。 その後も順調に実績を上げ、1911(明治44)年には日銀総裁に就任し、1913(大正2)年には第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に任命された。ちなみに、愛嬌のある丸顔と立派なひげというその外見によって国民に親しまれるようになった高橋は、この頃から「ダルマ宰相」の愛称で呼ばれ始めたようだ。

1921(大正10)年には総理大臣兼大蔵大臣に就任。その後もたびたび大蔵大臣として入閣した高橋は、1929(昭和4)年の世界大恐慌の余波による昭和恐慌から抜け出すため、日本初の赤字国債を発行するなど、積極的な財政政策で何度も日本の経済危機を救った。 だが、順風満帆に見えた高橋の人生は、満州事変によって一変する。満州事変以降、軍備増強を推し進めつつあった日本の軍部は、国債を軍事費に使うことを求める。しかし、高橋は断固として首を縦に振らなかった。これにより軍部の反感を買った彼は、とうとう1936(昭和11)年、自邸に踏み込んだ青年将校らの銃弾に倒れるのである。のちに二・二六事件と呼ばれる動乱であった。

強い意志と行動力で経済界をリードしてきた高橋の人生はこうして幕を閉じた。二・二六事件の舞台となった赤坂の高橋の邸宅は、現在、東京都小金井市にある江戸東京たてもの園にその一部が移築され、日本近代史に残した彼の功績を今に伝えている。
高橋が事務主任としてその建築に関わった日本銀行本店本館

高橋が事務主任としてその建築に関わった日本銀行本店本館(1896年竣工)。設計者は英語学校時代の教え子である辰野金吾であった。


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