幕末から明治へかけての激動の時代、持ち前の前向きな精神で立身出世を果たし、優れた経済感覚で崩れかけていた日本の財政を立て直した男がいた。明治期に日本銀行総裁、大正期には総理大臣を務め、さらに昭和初期までに合計7回も蔵相を務めた高橋是清である。
彼の生涯は若い頃から波乱に満ちていた。1867(慶応3)年、英語の力を伸ばすことを志し、14歳でアメリカ・サンフランシスコへ渡航、アメリカ人夫妻のもとで暮らすことになった。しかし、その家庭の都合から、奴隷の身分で他の家庭に身売りされてしまう。渡米して1年ほどたった頃、彼は日本で江戸幕府が崩壊したことを聞きつけた。苦労の末に自分を売った相手を呼び寄せ、領事立ち会いのもと話し合った結果、奴隷契約破棄の裁決を下してもらい、何とか帰国の途についた。辛酸をなめた留学体験ではあったが、その中で身に付けた高い英語力は、やがて政界に入った後に大きな武器となるのだった。
帰国後、舞妓の三味線持ち、大学教官手伝いなどの仕事を転々とした高橋は、知り合いの紹介で運良く英語学校に教師の職を得る。幕末から明治維新にかけて、国外に門戸が開かれたことで青年から年配者にまで英語の需要が高まっており、高橋のような英語習得者は貴重な存在だったのである。ある時、生徒たちに外国人と直接英語で会話する機会を与えようと、アメリカの捕鯨船が帰港する唐津港まで繰り出したことがあった。彼はこの時の思い出を次のように書き残している。
(生徒たちの話し相手になってもらいたい旨)船長は快よく引受けて、ビールなど出したりして、接待(もてな)してくれた。すると、生徒たちは、我も我もと、学校で教わった英語の会話を繰返し繰返し話しかける。外人はそれが解(わか)ったので、応答してくれるという風で、ここに始めて自分たちの習っている英語は、本当のものであるということが分って、一同大変に喜び安心したような次第であった。
※原文のまま掲載。 (高橋是清著 上塚司編『高橋是清自伝(上)』)
高橋のはからいは、生徒たちにとって陽気で楽しく、そしてまたとない貴重な体験になったようだ。この時、ビールという飲み物が、外国人に不慣れな生徒たちと外国人船員たちとの、異文化交流の潤滑油になったといえるであろう。