日露戦争における小村寿太郎の活躍
外務大臣時代の小村寿太郎(国立国会図書館 蔵)
ビールを片手に思索にふける
日露戦争の講和会議で外交の才を発揮した小村寿太郎であったが、その前半生は決して順風満帆ではなかった。事業失敗による親の借金をそのまま引き継いだため、毎月の債務返済に追われ、昼食代にも事欠くありさまだったのである。しかしアルコールへの嗜好は非常に強く、ある時は無い金をしぼり出すようにして飲み、またある時は友人におごってもらうなどしていた。不平等条約の解消に尽力
日露戦争後、小村は最後の大仕事に取りかかる。幕末に締結された不平等条約の最後の一つ、関税自主権にまつわる諸条約の改正に挑んだのである。日露戦争を通して全世界に日本の国力を示したことで、改正のための土台はできていた。しかし、有色人種に平等待遇を許す初めてのケースだったため、欧米諸国は改正に難色を示す。小村は日露戦争の講和交渉と同じく強硬な姿勢を貫き通し、丸一年かけて着実に対話を進めた。そして1911(明治44)年、ついに日米新通商航海条約を調印。この条約によって日本は関税自主権を回復し、名実ともに列強の仲間入りを果たしたのである。また小村は、1907(明治40)年の日露協約、1910(明治43)年の韓国併合でも交渉の主導的役割を果たし、明治維新後の富国強兵政策の結実に尽力した。日露戦争講和会議の日露全権団。 左から三番目が小村寿太郎(外務省外交資料館 蔵)
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