音二郎の名を世に広めた「オッペケペ節」
権利幸福きらひな人に
自由湯をば飲ましたい
オッペケペッポーペッポーポー (松永伍一著『川上音二郎』)
上は1887(明治20)年に発表され一世を風靡した、川上音二郎作「オッペケぺ節」の有名な一節である。自由湯とは、「権利」や「平等」といった自由民権の思想を世に訴えた自由党のこと。自由民権の思想を知らない人に自由党の主張を理解してほしい、という意味であり、ファッションなどうわべだけが西洋化していく世俗を批判したものである。
「オッペケペ節」を生み出した川上音二郎の波瀾万丈な生涯は、14歳で故郷の博多を飛び出したところから始まる。職も金もない音二郎は寺の居候として生活し、そこで出会った慶應義塾の創設者、福澤諭吉の書生となる。しかし勉強よりも芸能に夢中だった彼は、裕福な学生の門限破りを手伝うなどして、もらった謝礼を貯め、落語や講談に頻繁に通ったという。
慶應義塾を去った後、彼は反政府活動に手を染めていく。警官が目を光らせ、厳しい取り締まりのあった当時、逮捕されずに自分の主張を世間へ訴えようと、彼は“芸”を利用することを思いつく。そこで考案したのが「オッペケぺ節」であった。「オッペケぺ」とは合いの手のようなもので、この言葉自体には特に意味はない。当時20代半ばであった音二郎は、この一種の話芸によって、西洋の文化や格好だけを取り入れている政府高官や上流階級を風刺し、自由民権の思想を学ぶ必要性を訴えた。「オッペケぺ節」は芝居ではなく、あくまで幕間の余興にすぎなかったのだが、元来目立ちたがり屋で芸達者な彼がこれを唄うと大いに受け、「オッペケぺの音二郎」として名が売れていった。この「オッペケぺ節」に、次のような一節がある。
ビールにブランデーベルモット
腹にも馴れない洋食を
やたらに食ふのもまけをしみ
内証でそーッと反吐ついて
真面目な顔してコーヒ飲む
をかしいねえ
オッペケぺー オッペケペッポーペッポーポー (松永伍一著『川上音二郎』)
馴れないビールなどの洋食を食してもこっそり吐いてしまうくせに、平然とコーヒーをすすっているのだからおかしいものだ、という意味である。新しいもの好きの音二郎のこと、彼はもちろんビールをはじめとした西洋の飲料を批判しているわけではなく、急激なうわべだけの西洋化は日本人には滑稽であると揶揄しているわけだ。
音二郎は政治活動を始める前には洋傘修理業に従事していた。洋傘は当時流行していたファッションで、文明開化の波に乗ったいわゆる洋風志向のものであった。彼はハイカラな文化に影響を受けながらも、西洋化する社会や人々を冷静な目で観察し、自分の芸へと昇華させていったのだろう。