鹿鳴館時代を演出した後半生
維新達成後新政府内で活躍し、大阪会議などで功のあった彼は、1879(明治12)年に外務卿となる。
開国から20年以上の歳月がたち、西洋文化もかなり浸透していた。しかし、いわゆる「不平等条約」が物語るように、日本は西洋からさげすまれた立場にあった。これを改めさせようと井上は動く。日本の文化水準も、西洋に負けず劣らず高いのだということをアピールしなければならない。そこで、文明開化のシンボルとし、かつ海外の要人と交流を深め不平等条約改正のために役立てるべく、洋館の建築構想を浮かべたのである。
1883(明治16)年11月28日、東京・日比谷に「鹿鳴館」はオープンした。建築費18万円(現在の数十億円に相当)。建坪410坪の土地にあらわれたのは、イタリアルネッサンス様式に英国風を加味した瀟酒(しょうしゃ)なレンガづくりの2階建て。井上自らが招いたイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルの設計によるものだ。
オープン当日は、井上と夫人の武子が主催した舞踏会に、西洋風の衣装に身を包んだ国内外600人の紳士・淑女が集ったという。以来、夜ごと舞踏会が開かれ、人々は西洋の料理、酒、そして文化に魅了され、鹿鳴館に吸い込まれていった。
鹿鳴館で飲まれた酒は、もちろん西洋から伝わったビール、ワインなどであった。この鹿鳴館という一つの建物をめぐる歴史と文化は、「鹿鳴館時代」というエポックをつくり上げる。
しかし、井上の思惑もむなしく、不平等条約の改正は遅々として進まなかった。その責任をとり外務大臣を辞任した彼は、その後、農商務、内務、大蔵大臣を歴任し、晩年は元老の一人として政界に臨み、1915(大正4)年にこの世を去った。
生涯をかけて日本の西洋化を目指した井上は、晩年も日本酒ではなく、ビールなどの西洋伝来のアルコールを好んだという。ときには、外交交渉が思うように進展せず、はがゆい思いをしながら、ほろ苦いビールを口にすることもあったかもしれない。