ほろ酔いで家族や友人と語らう
「露伴」の筆名は「旅路の中で、露を伴侶とす」の意味である。この名が示す通り、彼は文学界の一匹狼を貫いた。徒党を組むことを嫌い、紅葉が座長を務めた硯友社のような一派は持たなかった。
作品においても、二人は対照的であった。口語体と文語体を組み合わせた流麗な文体で浮き世を描写しようとした紅葉に対し、露伴は漢語的な文章で美の本質に迫ろうとしていた。そのため、当時二人の作品は、「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と称されていたのである。
1897(明治30)年には、家族とともに向島(現・東京都墨田区東向島)に移り住む。江戸時代から文人たちに親しまれた田園風趣を色濃く残すこの地で、ひっそりとした作家生活を営むためだ。彼は自邸に、家を持たないカタツムリに擬して、「蝸牛庵」という名を付けた。
教養人でもあった露伴は、将棋、書道、川釣りなど、その趣味も多岐にわたったが、日々の一番の楽しみはアルコールであった。世間では「酒仙」の異名でも知られていたほどだ。
露伴はアルコールならより好みはしなかったらしく、ビール、ウイスキー、清酒など、どんなアルコールも嗜んだ。自ら銀座の明治屋や浅草の山屋などの酒販店へ買い求めに行くこともあったという。露伴の娘で、のちに随筆家となった幸田文は、アルコールを飲む父の姿を多く書き残している。
父はよく酒を飲んだ。一人でも飲み客とも飲んだ。(中略)私たちにもしつこかった。機嫌よく酔っているときは話を聴かせてくれるにしても、浮きたつようなおもしろさであった。そのおもしろさが遂におわりまで続いたことがなかった。ひきこまれて夢中になっているうちに泣かなくては納まらないような羽目にさせられてしまう。
※旧仮名遣いは適宜新仮名遣いに直した。 (幸田文著『みそっかす』)
ほろ酔い加減で家族らと語らう露伴。この記述は、文章の難解さや「大露伴」の敬称からは想像もつかない、彼の一面を教えてくれる。気難しく厳格な気性のせいで家族をよく困らせていた反面、晩酌をして家族と談笑することを生涯の楽しみとしていた。
人と会うときにも、その傍らには常にアルコールがあった。碩学である一方で、篤厚でユーモアを忘れない人間性に、誰もがほれ込んだという。