江戸時代後期になると、いくつかの蘭日辞書類にビールの項目が立てられるようになった。蘭学者に広く読まれた森島中良編『類聚(るいじゅう)紅毛語訳』(1798年完成、のちに
『蛮語箋(せん)』と改題)には飲食の部に「麦酒 ビール」とある。またオランダ商館長
ヘンドリック・ドゥーフが幕府の求めに応じて編集を始め、阿蘭陀(おらんだ)通詞らによって完成された本格的な蘭日辞典『ドゥーフ・ハルマ』(1833年完成)では「ビール」に関する項目、用例を合計30近く掲載した。
本格的な蘭日辞書としては大槻玄沢の門弟、稲村三伯らが、『ドゥーフ・ハルマ』と同じくフランソワ・ハルマの蘭仏辞典を元に編集した『ハルマ和解(わげ)』(1796年完成)のほうが先に完成している。しかし彼らはBIERを「ビール」とせず「麦酒」と記した。
『ドゥーフ・ハルマ』は完成から20余年にわたり幕府によって版行が禁じられていたが、幕府の医官、桂川国興の働きかけによって『ドゥーフ・ハルマ』に手を加えた『和蘭字彙』(1858年完成)が刊行される。この本は非常に高価だったため藩や蘭学塾などで1セットを共同で利用した。この辞書にも「ビール」の文字が見られる。
これらの書物を通して「ビール」という名前は開国以前から蘭学者の知るところとなった。