条約改正の機運が高まった1885(明治18)年頃から各国は積極的に日本市場にビールの売り込みをかけた。特にドイツ領事館は熱心で、この時期にストックなどのビールが続々と日本に輸入された。
1885(明治18)年に
「浅田ビール」を発売した浅田甚右衛門は、のちに回想記「麦酒製造の思ひ出」(1935年『集古』所収)において、当時ドイツビールの人気に押されてイギリスのビールが振るわなくなったこと、ドイツビールの中でもストックの人気が圧倒的だったこと、さらに「浅田ビール」はストックに似ていたのが好評の理由だったことなどを述べている。また、丸善商社唐物店『和洋品相場書』には1888(明治21)年頃の東京では国産ビールの質が向上し、しかも値段が安いので輸入ビールが売れなくなったが、ストックだけはどこの料理店でも扱われたとのことが記されている。
輸入ビールの主軸がイギリス産からドイツ産に移った事情を、1887(明治20)年9月10日付『時事新報』では、「兎角此頃は何事も独逸風の流行する際なれば、(略)昨今は独逸製ビールは需要多く、輸入も過半数以上を占むる」と述べる。ドイツ製ビールの需要が多い理由は、味があまり苦くなく甘味を帯びているため、と解説する。
上記の記事で「何事も独逸風の流行する」というのは、当時の日本政府がドイツを目標としていたことと関連する。明治維新期の政府はイギリスを文明開化の手本としていたが、岩倉使節団の見聞を踏まえて政治・社会的伝統が日本とは大きく異なるイギリスを見習うのは難しいと判断した。彼らが新たな手本として選んだのは、宰相ビスマルクの下でめざましく発展し、ヨーロッパの列強国にのし上がったドイツである。以降、官僚や軍人の留学先はドイツが多くなり、法律、医学をはじめ多方面で「独逸風」が導入された。
ドイツ留学を経験した者の多くは、帰国後、ドイツの制度や技術とともに現地のビールやビール文化を称えた。そのこともドイツビールの名声を高めることにつながったといえる。