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テーマ別解説

日本人のビールの好み

(4)淡白になった国産ビール
明治時代のドイツ風ビールとは、どのような味だったのだろうか。

1889(明治22)年3月『ザ・ジャパン・ウィークリー・メイル』に掲載された、東京帝国大学化学科教授ダイバース博士による「キリンビール分析記録」と現在のものを比較すると、当時は現在よりも原料を多く使用し、アルコール度数も高めであったことが判明した。またホップは保存性を高める目的もあり、使用量がかなり多く、そのため苦味も現在よりかなり強かったと考えられる。その一方、気密性に劣る木製樽で発酵したため、ビール中の炭酸ガスは現在より低かった。

1903(明治36)年の第5回内国勧業博覧会の審査報告に記された総評には、「ラガア」ビールの麦汁の糖度はドイツと同じ13〜13.5%とされていたことが記されている。このように麦汁の糖度が高いビールは色が濃く、赤褐色になる。そのため黒ビールに対して、ラガービールは赤ビールとも呼ばれた。赤いラガービールは酸化するとさらに赤味を増すという特徴がある。当時はびん詰技術が未発達だったためにびん内に酸素が残りやすく、赤味が強くなることは珍しくなかった。

また、明治30年代にジャパン・ブルワリー・カンパニーに入社した社員の話では、当時のビールは粘着度も非常に強かったと伝えられている。そのため手につくとべとべとし、泡は口の周りに飴のようにくっついたという。粘着度が強いのも、ドイツ人の技術者がドイツでつくられるビールと全く同じビールをつくろうと努力した結果だった。

明治期のラガービールの味の特徴をまとめると、苦みと風味の強いまったりとした赤いビールだったことになる。もし現代人がこれを飲むと清涼感に欠けると感じるだろう。 1926(大正15)年に完成したキリンビール横浜工場では、技術革新によって、現在のような黄金色のビールがつくられた。ただ、麦芽やホップの使用量は現在より多く、芳醇で濃厚な味であった。

それから十数年後、原料不足からビールの味は変わり始める。1940(昭和15)年、酒税法改正によってビールの原料にでんぷん類の使用が認められた。ドイツではビールの原料は麦芽、ホップ、水だけとされているが、国内では遅くとも明治30年代には副原料として米が使用されていた。1940(昭和15)年の法の改正は、米不足のため米以外のものを副原料とすることを推奨するものだった。また、副原料の使用量は法改正前は麦芽の重量の10分の3までとされたが、改正後は2分の1までとなった。

1944(昭和19)年には原料事情がより逼迫して米が使えなくなり、麦芽とでんぷんによるビールづくりが行われ、麦芽の使用量も減少した。その結果、日本のビールの味はすっかり淡白になってしまった。しかし、この淡白なビールは配給によって多くの人に飲まれるようになった。その味を人々が親しんだためか、戦後に原料の制約がなくなっても明治時代のような濃厚なビールはつくられなかった。またホップの使用量も戦前より少なくなった。

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