松尾芭蕉の句「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」のように、日本人は古くから飲食に旅の楽しみを見いだしていた。明治時代に鉄道が開通すると、駅や車両内で飲食が楽しめるようになる。1872(明治5)年10月14日の新橋駅開業の模様を記録した『東京名勝図会』巻之上(岡部啓五郎著、1877年刊)によれば、当時から駅構内に「洋物洋酒を鬻(う)る店」が存在したという。
明治10年代には駅弁が登場し、車内で食事をする人が増える。さらに鉄道網が広がると長距離移動のために車内で飲食する必要性が増し、1897(明治30)年、私鉄山陽鉄道に食堂車が登場したといわれている(1898年、1899年の説もある)。4年後、官営の東海道線にも食堂車が現れるなど、全国に食堂車が広がった。1901(明治34)年から山陽鉄道の食堂車の経営を引き受けた神戸の「自由亭ホテル」(のちの「みかど食堂」)や、東海道線の「精養軒」など、当時の食堂車は動く西洋料理店であり、1、2等車の客を対象に本格的なフルコースの洋食が提供された。飲み物は、日本酒、ビール、ウイスキー、ジンジャーエール、炭酸水などが置かれていた。1925(大正14)年7月の東京〜下関間の食堂車の記録によると、アルコール飲料ではビールの注文が最も多かった。
食堂車が登場した頃、関西鉄道では車内販売が始まった。1900(明治33)年頃の関西鉄道「販売品目録」によれば、弁当20銭、寿司10銭、サンドイッチ25銭で、飲み物はビール小びん15銭、大びん25銭、炭酸水15銭、日本酒小びん10銭であった。
また、大正時代にはプラットホームに臨時のビアホールが設置されたり、停車中の汽車の客を相手に、生ビールが販売されたりした。食堂車は、戦争の影響でいったんは姿を消したが、1949(昭和24)年に運行を再開した特急「へいわ」とともに復活し、以後続々と復活・拡大していった。
また自由販売再開から数年が経つと、車内でビールを提供する納涼列車が、海の行楽地へと走るようになった。小田急電鉄は夏季に江ノ島行きの
ビールスタンド付き特急を走らせた。夕方5時に新宿を発車し、車内でビールを楽しみ、江ノ島で2時間程海岸を散歩した後、夜の10時半に新宿に戻るというものであった。京成電鉄も千葉方面にビールの飲める「納涼電車」を走らせた。
昭和30年代になると、戦後の高度経済成長により旅行が一般化し、列車サービスも大衆化した。乗客は誰でも席にいながら、ビールや飲料、弁当などを楽しむことができるようになった。
1980年代には、ビールの飲める「お座敷電車」、「納涼ビール列車」などを走らせることが全国的に流行し、ビールを利用したイベント列車が全国で多くの客を集めた。地ビールが流行した1990年代には特急の車内や駅構内で地ビールの販売も行われるようになった。