ビアホールのブームはやがて大阪にも押し寄せ、1903(明治36)年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会では場内にビアホールが立ち並んだ。
大正に入るとビアホールは地方にも広がる。伊豆の修善寺温泉をはじめ、
各地の観光地にもビアホールが設けられた。その背景にはビール会社の営業戦略だけでなく、地方にも都会での流行を知る人が増えたという時代の変化があった。
その後、カフェー、バーなどビールが飲める場所は増えたが、ビアホールは手堅く人気を維持する。
新しい盛り場として発展しはじめた新宿には1933(昭和8)年、「新宿ヱビスビヤホール」が開店した。このビアホールはビール会社の直営店ではなかったので、日本酒も提供するなど新しいサービスを始めた。当時東京のビアホールの数はカフェーなどの流行に押され、数えるほどしかなかったが、新宿ヱビスビヤホールは場所の勢いもあって大成功した。後にこの店の経営者はニュートーキヨーを設立し、ビアホールのチェーンを展開する。
日中戦争が始まってビアホールはかえって客が増した。出征兵士のための壮行会などにはある程度の広い店が必要とされたためである。また日中戦争初期の段階ではそれほど市民生活への影響は厳しくなかった。1937(昭和12)年9月29日発行の『アサヒグラフ』には「銃後の力の糧!」というコピーでキリンミュージック・ビアホールが開店したことを知らせる広告が掲載されている。
しかし、やがて戦争の影がビアホールにも忍び寄る。1940(昭和15)年、飲食店で昼間に酒類を提供することが禁じられ、ビアホールでも昼間は食事しか出せなくなった。1943(昭和18)年にはビアホールでの販売量が制限され、さらにほとんどの店が閉店を余儀なくされた。全国のビアホールの数は50軒程度にまで減少し、残ったのはどれもビール会社直営のビアホールだった。これらのビアホールは終戦直前でもビールの飲める数少ない場所であった。飲むためには産業報国会が配布する産業戦士用のビール券などが必要で、ビール券を手に入れたビール党は長い行列に耐えて、やっとありついたビールでのどを潤した。しかし、それも終戦で営業を停止し、進駐軍にビールを提供する場所に変わる。
1945(昭和20)年9月12日、都内で初めて進駐軍のためのビアホールが、銀座7丁目の恵比寿ビヤホールを接収して開かれた。日本人のための
ビアホールの再開は、1949(昭和24)年まで待たなければならなかった。