食べることに重点を置いた西洋料理店や牛鍋屋とは別に、ビールを飲むことに重点を置いたビアガーデンや洋酒の一杯売りは明治初期に登場していた。
1875(明治8)年には、国内に既に「ビアガーデン」があった。
「スプリングバレー・ビアガーデン」はアメリカ人の
ウィリアム・コープランドが、醸造所
スプリングバレー・ブルワリーの隣で開いたものである。外国船の船員や居留地に住む外国人に、スプリングバレー・ブルワリーで醸造したビールを提供していた。
1887(明治20)年頃からは、日本橋や京橋の洋酒一杯売り店が納涼客でにぎわうようになった。ビールを含む洋酒はいずれもびん単位では高価なものであったため、比較的安価である一杯売りは、愛好者を広げるのに一役買った。
大阪では、1895(明治28)年から
「ビール会」というビール専門の一杯売りの店が人気を博し、東京では、1899(明治32)年8月に日本麦酒株式会社が京橋区南金六町五番地(現在の銀座)に
「恵比寿ビヤホール」を開店した。このビアホールは大人気となり、ほかのビール会社も自社製ビールの宣伝を兼ねたビアホールを競って開業した。また、地方の都市にもビアホールの開店が相次いだ。
恵比寿ビヤホールでは開業時、ドイツのビアハーレを模して塩を添えた大根の薄切りをつまみとして出していた。ドイツではごく一般的に食べられているつまみだが、日本では全く人気がなかった。開業から1か月後の1899(明治32)年9月4日付『中央新聞』によると、「最初大根を出して置いたが、是れに手をつけるものは至つて少なく、何か他のものをと言ふ人が多かつたのでそれから蕗、海老などの佃煮にした」という。しかし、佃煮も「余り不体裁なので」廃止されてしまったが、日本人にとっては、つまみなしで飲むことはおいしさの3割を損なうことになるので、何か用意したほうがいいだろう、と報じている。実際、別のビアホールではドイツ風にソーセージなどを出したが、同じビール中心の店でもより手軽なビールスタンドでは雀焼や川えびなどが肴として用意されていた。