「ビアホール」の名が日本で初めて使われたのは、1899(明治32)年8月4日に日本麦酒が開いた
「恵比寿ビヤホール」である。場所は東京の一等地、京橋区南金六町五番地(現在の中央区銀座八丁目)、新橋から銀座通りに入ってすぐ右側の煉瓦造りの2階建ての建物の2階部分である。建物は日本麦酒のものではなく、安田銀行から借りたものだった。
「ビアホール」という言葉は、日本麦酒の社長、馬越恭平が居留外国人のアドバイスを受けて考案したといわれている。ドイツ語のビアハーレ(Bier Halle)は醸造所内の大広間でビールを飲ませるもので、500〜1000人くらいの収容能力がある施設であり、醸造所内ではなく、広さも35坪しかなかった恵比寿ビヤホールは、ビアハーレには当たらない。
日本初のビアホールでのビールの値段は、0.5Lで10銭、0.25Lで5銭。当時の女性の紡績工の1日の賃金が20銭程度であり、決して安くはなかったが、連日満員の大盛況だった。
その盛況ぶりを1899(明治32)年8月26日付『報知新聞』は「遠方から態々(わざわざ)馬車でやつて来る程の大繁盛、一日平均八百人内外の来店で、上高百二三十円に及ぶ由」と伝えた。開店から1か月過ぎても人気は衰えることなく、1899(明治32)年9月4日付『中央新聞』は店内の様子を「其の中の模様は(略)全く四民平等とも言ふべき別天地で、ちよつとしたお世辞にも、貴賤高下の隔ては更に無い。此処へ這入れば只だ誰れも同じくビールを飲む一個の客で、(略)車夫と紳士と相対し、職工と紳商と相ならび、フロツクコートと兵服と相接して、共に泡だつビールを口にし(以下略)」と紹介した。ビアホールは開放的で、明治の人々にはその雰囲気自体が新鮮なものに思われたのであろう。
恵比寿ビヤホールでは初め大根を短冊状に切ったものをつまみとして用意した。これはドイツで一般的なビールのつまみであるラディッシュの薄切りを真似たものだが、日本の客には受け入れられなかった。そのため大根をやめて、蕗や海老の佃煮を出してみたが、場の雰囲気に似合わず、開店から1ヶ月ほどでつまみはほとんど廃止された。
恵比寿ビヤホールの大成功に刺激され、同年秋、東京にビアホールが続々と出現した。1899(明治32)年9月21日付『読売新聞』は、「ビアホール一雨毎に増加す」という見出しで、雨後の筍のようにビアホールが増える状況を伝えている。のちにはビアホールの大成功にあやかろうと、「ミルクホール」、「正宗ホール」などが登場するほどであった。